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聖書箇所 マルコ福音4章35節~41節
「嵐の中に共におられる主イエス様」
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」
(詩46篇10節[口語訳])
「イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。」
(マルコ福音書4章39節)
「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」
(ヨハネの第一の手紙5章5節)
主イエス様は日中、ガリラヤ湖の岸辺に舟を浮かべ、人々に説教されました(マルコ福音書4章1節、3章8~10節)。その後は、群衆を解散する気力もなくなるほど大変疲れられ、「『向こう岸へ渡ろう』と言われた。そこで、彼ら(弟子たち)は群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した」(4章35,36節)のでした。
主イエス様はその時、舳(とも:舟の後の方)で熟睡しておられました(4章38節前半)。それは、主イエス様が「神の独り子」、「神」でありながら、弱さと脆さとを持った私達と同じ「人間」となられたからです(ヨハネ福音書4章6節、19章28節、マタイ福音書4章2節)。罪を犯すことは別として「普通の人間となられた」のでした(讃美歌121番、新聖歌99番「馬槽(まぶね)の中に」参照)。最後は、その弱さと脆さと病と貧しさをもった私達一人一人のために、その罪の罰を身代わりになって受けるため十字架に架かり死んで下さいました。更に今も、主イエス様は天にて私達一人一人のために祈りを聞いて、父なる神様に執り成していて下さっているのです(へブル書4章15節~16節)。
そのような主イエス様と同舟したお弟子たちでしたが、彼らは「激しい突風」に遭いました(マルコ福音書4章37節)。ガリラヤ湖はすり鉢の底のような所にある湖ですから、気温が変化する夕刻には、突風が山から吹き下ろして来て湖面を激しく打つことがあるそうです。弟子たちはこの突風に狼狽えました。こんな場合は舟が波にもまれて呆気(あっけ)なく沈み、嵐の中で溺れるしかないからです。
更に弟子たちは、嵐への恐れと共に、こんな事になったのはイエス様が「向こう岸に渡ろう」と言われたからだと思ったかもしれません。主に従って舟を出したのに「なぜ、こんな目に遭うのか?」と主を責めたい思いに駆られたのではないでしょうか。現代の私達も、神様にお従いしているのに上手くいっていない事があったり、思いもよらない困った出来事が起こったりしたことはありませんか?
この時、お弟子たちは主イエス様の「向こう岸に渡ろう」という聖声に忠実に従った結果、激しい嵐に見舞われて舟は沈みかけ、波にのまれて溺れてしまいそうな「危機的な状況」に遭遇してしまったのです。おまけに「向こう岸へ渡ろう」と言った張本人の主イエス様は、伝道の疲れとはいえぐっすりと眠りこけ、激しい嵐に舟が沈むことも気づかない、無責任極まりない状態でした(マルコ福音書4章38節前半)。弟子たちは主に反感を持ち「先生、わたしどもがおぼれ死んでもおかまいにならないのですか」(4章38節後半)と非難しました。一方、主はどんな事が起こりましても父なる神様を信頼し切って、平安の内にぐっすり休んでおられました。
しかし、弟子たちはこのような主の御心が理解できずに、自分の立場や見方で主イエス様を批判しました。現代の私たちも自分の経験や先入観を第一にしやすいのですが、謙虚に「主よ、御心は何ですか?」と祈るものでありたいと思います(イザヤ書55章8,9節参照)。また、主イエス様御自身は、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ福音書13章7節)と言われます。この「後で、分かるようになる」は私たちの「信仰生活のキーワード」であり、私達の立つべき立場は「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩46篇10節[口語訳])です。先走りせず、「主の御心は何ですか?」と謙虚に神様の御旨を伺うために、まず主の前に静まり、聖書の御言葉に聞くことが大切です。
その後、「真の人」である主イエス様は、父なる神様の「独り子」として自然界を統べ治め支配される「神としての栄光」を現すため、「起きあがって風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。」(マルコ福音書4章39節)のでした。まさに、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(詩46篇10節[口語訳])の成就です。
その後、主イエス様は「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」(マルコ福音書4章40節)と言われました。主は疲れてぐっすり眠っておられたのですが、初めから突風が起きやすい夕刻を選ばれ、弟子たちを舟に乗せて、彼らの信仰を訓練されていたのです。私達に求められるのは、先走りせず、共に舟の中におられる主イエス様を信頼して、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩46篇10節)と言われる「主なる神様」を仰ぐことです。また、聖書は「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(Ⅰヨハネの手紙5章5節)と宣言します。
今日は、阪神淡路大震災で大切な方を亡くされた方々、大切なものを無くして人生が一変し、傷み続けておられる方々を覚え、主のお慰めを祈らせて頂きました。震災に関連して主の御業を証しします。
坊向久正先生は31年前の阪神淡路大震災の時、教会堂の2階牧師館におられ、激しい揺れで床は頭の方が下がりベッドは斜めに傾き本棚も倒れましたが、主のお守りで怪我はありませんでした。その後、礼拝堂は地震で亡くなった方々の遺体と家を失った人々で埋め尽くされましたが、久正先生は人々に明るく気さくに「私は96歳です」と自己紹介を始められました。ご家族は、いつもと変わらない先生の姿に「おじいちゃんは、この状況が分かっていないんじゃないの」と首を傾げました。余震の続く中、ご家族は久正先生を教会員の家に避難させようとしましたが「私は教会から離れない」と言われました。
次の日、車で被災した神戸の街の惨状を見てもらいましたが、動揺した様子もなく教会に帰って来られました。被災記事に溢れた新聞を読んでも、特に変わった様子はなく、いつも通り神様との「祈りの時間」を何時間も持っておられました。
後でご家族が久正先生に「何故、動じないのですか」と聞かれると、先生は24歳の頃に関東大震災も経験しておられ、一人で祈っている時に大地震の酷い揺れでゴロゴロと部屋の中を転げまわったそうですが、その時の祈りの中で、「地震より大いなるもの、ここにあり。イエス・キリストである」と主イエス様の御声を聞かれました。その途端、嬉しくなって、地震の揺れの中も転げながら讃美歌を歌い出されたそうです。それ以降、久正先生は、恐れることは何も無くなったそうです。
先程掲げた御言葉に「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(Ⅰヨハネの手紙5章5節)とありますが、人生の大嵐の時、主イエス様を「地震より大いなる御方」「神の子」「まことの神様」と信じましょう。主は、必ず私達に勝利を与えて御自身の栄光を現して下さいます。
2026年1月18日(日)伝道礼拝説教要 竹内紹一郎
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