岩の上に建てられた家
『わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても倒れることはない。岩を土台としているからである』。
(マタイ福音書7章25節)
5章から7章まではイエスがお語りになった「山上の垂訓」ですが、その最後にこの「岩の上に建てられた家」の譬えをお語りになりました。
その前に、『わたしのこれらの言葉を聞いて行うもの』とありますが、わたしたちの宗教は聞くだけでなく「聞いて行うもの」でなければなりません。つまり聞いたことを実践することが大切なのです。
ヤコブ書2章にも『人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。行いのない信仰は死んだものなのである』(26節)とあります。つまり福音を聞いて悔い改め、生まれ変わった人が、こんどはその信仰を実践するのです。これがクリスチャンです。
イエスはその譬えで「岩の上に建てられた家」と「砂の上に建てられた家」と対照的にして語っておられます。完成した家はどちらも遜色のない立派な家でしたが、台風が襲ってきて洪水になったとき、砂の上に建てられた家は流されてしまいましたが、岩の上に建てられた家は無事に守られたのです。これは「岩を土台としていたからである」とあります。そしてコロサイ書10章4節には『この岩はキリストにほかならない』とあります。
わたしたちの人生も、いつも平穏無事とは限りません。いつ思いがけない災難に遭遇するかわかりません。でも、そんなときでも岩であるイエス・キリストを土台としているなら、どんな試練や災難に遭遇をしても磐石でおられるのです。多くの人の人生の土台は何でしょうか。努力をすることを惜しみ、安直な砂の上に建てられているのなら、危険なことこのうえもありません。岩の上に家を建てるということは、いろんな意味で苦労があると思います。しかしどんな人生の嵐がきても恐れることはありません。ですから皆様の人生をイエス・キリストという土台の上に建ててください。
1964年(昭和39年)6月16日に『新潟地震』が発生しました。新潟県北部沖を震源とするマグニチュード7.5の大地震で家屋の被害二千戸以上、死者26名という記録があります。その当時わたしは隣県の長野市の教会で働いていましたが、東京の教団本部から「新潟に行って教会の被害状況を調査して知らせるように」という指令を受け、地震の翌日に新潟入りをしました。
新津からバスに乗り市内は徒歩で入りましたが、まず新潟駅に立って驚きました。レールが飴のように曲がりくねり、地震の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。また駅前のビルが地下に埋まり一階が半地下のようになっていました。また少し郊外に移動すると県営住宅群がまるでドミノ倒しのように倒れているのです。それを見たとき何故こんな状況が起きたのか理解に苦しみましたが、小学校時代に「新潟県は信濃川の河口にある街で、長い間上流から流された土砂が堆積してできた三角州の上にできた街である」と教えられたことを思い出しました。つまり砂の上の街だったのです。正しく聖書どおりでした。
また40年ほど前に仕事の関係でニューヨークを二度訪問しました。最初の訪問のとき、ケネディ国際空港で降り、迎えの車でニューヨーク市内に向かいました。すでに夜になっておりましたが、マンハッタン島に近づいたときあの高層ビルが半島の所狭しと乱立している光景を見て圧倒されるような思いがしました。しかもかなり遅い時間なのにどのビルにも煌々と電気が灯いているのです。そこで「アメリカ人はこんな遅くまで働いているのですか」と質問しますと、運転手は「いや、ただ電気を灯いているだけです」という返事が返ってきました。それを聞いたとき、やはり日本人ですね、「勿体ない」と思うと同時に「アメリカの電気代は安いんだなあ」と呟いていました。
もう一つの疑問は、こんなに高層建築物が乱立しているのに、「よくも地盤が沈下しないものだ」と疑問でした。その後、ある書物をとおしてマンハッタン島の地下には非常に大きな岩盤があり、その上まで建造物の杭を下ろしているので大丈夫だということを知りました。やはり聖書の「岩の上に建てる」ことの大切さを教えられました。
坊向輝國
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