「祈り求めなさい」
坊向輝國
『求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば開けてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜すものは見いだし、門をたたく者は開けてもらえるからである。』
(マタイ福音書7章7節)
イエスはここで「祈るときにはこう祈りなさい」と祈ることについて語っておられるのです。クリスチャンが恵まれた信仰生活を送るためには、「信ずることと祈ること」を大切にしなければなりません。ただ信ずるだけで祈りがなければ、それは「信念のようなもの」です。また「信仰のない祈りは念仏のようなものだ」と言った人がありました、やはり恵まれた信仰生活を送るためには、「信仰と祈り」の両方を大切にすることです。そしてこれがクリスチャン生活の基本です。
どの宗教にも祈りはあります。また祈りのない宗教はありません。しかし多くの人の祈りは「商売繁盛」「家内安全」「無病息災」といったように、自分のための願い事をすることが多いのです。しかしクリスチャンの祈りは、神との霊的交わりです。そして恵まれた人ほどこの神との交わりを生活の中心に置いて大切にしています。
さてここでイエスは、祈りの態度について教えておられますが、「求めよ」「探せ」「門をたたけ」、そうすれば神は必ず願い求めることを聞いてくださると言っておられるのです。何故なら,『自分の子供がパンを求めるのに、石を与えるものがあろうか。魚を求めるのに蛇を与えるものがあろうか。あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には良い贈り物をするのを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら求めてくるものには良いものをくださらないことがあろうか』とあります。
そのように親は子供を愛していますから、その子供の求めるものを、どんなに無理をしてでも与えようとします。人間の親でさえそうなのですから、なおさら「愛の神」はわたしたちの求める願い事に聞いてくださらないはずはありません。いや、それ以上のことをしてくださるのです。ですから祈るときに、この愛の神のはらわたを握って祈ってください。神は必ずきいてくださいます。
次に、ルカ福音書11章8節以下に、祈るときの態度についてイエスが語っておられます。『しかし、よく聞きなさい。友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう』。これはその祈りが聞かれるまで諦めないで祈りつづけることを言っておられるのです。
譬え話の内容は、友人が長い旅をして真夜中に到着しましたが、何も接待するものがなかったので、隣りへ行ってパンを求めました。ところが隣の人は、初めは迷惑がって相手にしてくれませんでしたが、あまりにも真剣に求めるので(求めの切なるによりて)断りきれず、与えたというのです。そして、祈るときはそれが聞かれるまで、つまり「得るまで、成るまで」、諦めないで祈りつづけなさいと教えたのです。
ジョージ・ミューラという人がありました。彼は「信仰と祈り」によって延数千人の孤児を養い育てたという人です。それだけでも素晴らしいのに、彼はあるときから5人の友人が救われるようにと祈りはじめました。ところがなかなか祈りは聞かれませんでした。でも彼は諦めないで祈りつづけたのです。そして5年後にして最初の人が救われました。そして2人目の人が救われたのは10年後だったのです。あとの2人は25年後といいますから、ずいぶんと気の遠くなる話です。そして最後の人が救われたのは、彼が亡くなって数ヶ月後だったそうです。それは彼が祈りはじめて52年後のことでした。
随分と長い年月がかかりましたが、それでも祈りは聞かれたのです。わたしたちは少し祈りはじめても聞かれないと、「この問題は駄目だ」と直ぐに諦めてしまいますが、聞かれるまで信仰もって祈つづけることです。これが信仰の祈りです。
ある人は、「求めよ」とあるが、これは「求めつづけなさい」。また「探せ」とあるが、これは「捜しつづけなさい」。「門をたたけ」とあるが、これは「たたきつづけなさい」という意味だと語っておられます。
わたしたちは、何か問題があると祈りはじめますが、なかなか聞かれないと直ぐに諦め、「こんなに祈っているのに聞かれないから駄目だ」と投げ出してしまいます。しかし聞かれるまで祈りつづけることが大切なのです。
2025年9月14日 聖日礼拝
|