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2025年9月7日礼拝説教要旨

聖書箇所 ヨハネ福音書6章14節~21節     
      
            「わたしだ、恐れることはない」

「イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。」             
(ヨハネ福音書6章15節)

「すると、イエスは彼らに言われた、『わたしだ、恐れることはない』。そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。」                 
(ヨハネ福音書6章20.21節)


先週、先々週の聖日礼拝説教では「尊(たっと)いのは、愛によって働く信仰だけである。」(ガラテヤ書5章6節後半)」の御言葉について、具体的な3人の信仰者の「ヨハネ福音書6章」の少年と「赤十字社の生みの親のアンリ・デュナンさん」そして、「マルコ福音書14章」に記されたマリヤの姿と祝された結実を学びました。

今日は再び「ヨハネ福音書6章前半の記事」に戻ります。「5千人の給食」の記事は「4つの福音書」すべてに記され、主イエス様が「ただの人間」、ただの「預言者」ではなくて、神様から遣わされた「救い主キリスト」「メシヤ」であることを明確に示す「4つ目のしるし(奇跡)」として記されました。

この時、「人々はイエスのなさったこのしるしを見て、『ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である』と言った。イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ福音書6章14節15節)とありますように、主イエス様のなさった奇跡によって満腹した1万人以上の人々が「この方を王様にすれば、今後一切『食いはぐれる』ことがない」と思い、ユダヤ人の王様に祭り上げようとしたのでした。

 でも、主イエス様は「ただひとり、また山に退かれた」(6章15節の後半)とあり、同じ出来事を記した「マルコの福音書」には「そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた」(同書6章46節)とあります。

 主イエス様が天の父なる神様の許を離れて地上に降られた「大切な使命」は、私達も含めて全ての人の犯した罪を償うために十字架上で身代わりの死を遂げられることでしたが、その「使命」から主を逸(そ)らせる「誘惑」に打ち勝つために山に退き祈られたのです。人々から褒められ、煽(おだ)てられ、祭り挙げられて「いい気になって」ユダヤの王様になったら、「もうあの苦しい十字架に付かなくても良い」と思わせる「誘惑」です。でも、それでは私達一人一人を含めた全人類の罪が赦される「十字架の救いの御業」が完成せず、みな永遠の滅びに落ちてしまいます。

主イエス様は全ての人を救う十字架を避けさせようとする「誘惑」に打ち勝つために、「ただひとり、また山に退」いて祈られたのでした。福音書の他の箇所でも、主が「独りで、長く祈られた祈り」の多くは十字架を避けさせる「誘惑」に打ち勝つための祈りでした(マルコ福音書14章32節~42節、ルカ福音書6章12節~16節[裏切者ユダをも選ぶ祈り])。

一方、驚くべき「5千人の給食の奇跡」を目の当たりにして喜んでいた弟子たちは、そこにずっと居たかったのではないかと思います。そして彼らも間違いなく、主イエス様を「王様に祭りあげる」ために群衆の先頭に立って行動したかもしれません。それでは収拾がつかなくなるので、主は弟子達を舟に乗せられました(マルコ福音書6章45節)。

 弟子たちが乗った舟は、普段なら数時間もせずにガリラヤ湖の対岸のカペナウムに着くはずですが、この時は逆風で少しも進みませんでした。しかも、「海は荒れ出し」(ヨハネ福音書6章18節)ました。ガリラヤ湖で漁をして生計を立てていた少なくとも4人のプロの漁師(ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)が乗り合わせていました。しかし、彼らをしても「逆風」と「海の荒れ」のために、如何ともしがたい状態だったのです。同じ出来事を記した「マルコ福音書6章」には「夜明けの四時ごろ」まで、10時間近くガリラヤ湖の水の上で嵐に翻弄され「こぎ悩んで」いたのでした(同書6章48節)。

ここで「四、五十丁こぎ出した」(ヨハネ福音書6章19節)とあるのは、湖岸から約5km前後離れた「湖の真ん中」にいたということです。そんなお弟子たちに向かって、主イエス様は湖の上を歩いて、近づいて来られました。それは、「夜明けの4時頃」の薄明かりが差す頃でした。

その時、弟子たちは「何者かが、歩いて舟に近づいて来る」のを「目の当たり」にしました。同じ記事を記した「マルコ福音書6章49節」では、弟子たちは「幽霊だと思い、大声で叫んだ」とあります。恐ろしさのあまりパニックになっていたのです。当時、ユダヤ人は、「幽霊」がしばしば、海(湖)の上に現れるものと考えていたからです。弟子たちは「幽霊だ!」「幽霊だ!」と言って怯え切ったのでした。

すると主イエス様は、弟子たちが聞き慣れた御声で「わたしだ、恐れることはない」と宣言されました(ヨハネ福音書6章20節)。怯え切っていた弟子たちは、この主の御声で落ち着きました(6章21節)。

 「兵庫共励会」というNPO(障害をもって生活している方々が聖書を学びつつ交わりを持っておられる特定非営利法人)のメンバーに石田朝子さんという婦人がおられました。彼女は高齢の一人暮らしで「全盲(全く目が見えない)」の方でした。回りの人々は、目が見えないので不自由で大変だろうと思われるのですが、彼女は「神様がいつも共にいて守っていて下さるから、私は何一つ不自由がないの」と言われ、いつも「光」の中を歩んで、賛美と祈りの生涯を送った人でした。

しかし、以前は「生きることがこんなに辛いなら、自殺しよう」と思われたそうです。けれども自殺しようとした夜、雷のような大きな音がし、「朝子! よしなさい! わたしはあなたが母の胎に居る時から、あなたのことを知っている。わたしがあなたを守るから絶対に死んではいけない。わたしが必ず守るから、生きなさい。」と大きな声が聞こえました。それから、当時よく聞いてたキリスト教のラジオメッセージで語られた「父なる神様の存在」を思い出されたそうです。彼女は「母の胎に居る時から、私のことを知って下さっている方は、この方かもしれない。」と思い、その日から「父なる神に祈る」という生活が始まり、救い主イエス・キリストに出会われました。

私たちは、朝子さんのような厳しい環境に生きている訳ではありませんが、主の御声が聞こえるところに居なければなりません。問題が折り重なり、胸が苦しくなる時があるかもしれません。でも、まず一呼吸して、主に祈り、主の語りかけをしっかり聞きましょう。そのために、毎日(毎朝)聖書を少しでも読み、毎日曜日は礼拝を捧げて御言葉に与りたいものです。主の御言葉を聞く時、恐れと思い煩いから解かれ安らぎが来ます。「わたしだ、恐れることはない」と言われる主が共にいてくださるのです。

                        2025年9月7日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎