聖書箇所 ヨハネ福音書6章1節~14節②
「愛によって働く信仰」
「弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、 『ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう』。…イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。」
(ヨハネ福音書6章8~11節)
「尊(たっと)いのは、愛によって働く信仰だけである。」
(ガラテヤ書5章6節後半)
「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」
(Ⅰテサロニケ書5章16~18節)
頭はいいが物事を信仰を持って考えなかったピリポ(ヨハネ福音書6章5~7節)の次に出て来たのは、シモン・ペテロの弟のアンデレでした(6章8節、9節)。
実は、この「男の数は5千人(実際には1万人以上の人々)」の給食の奇跡の発端は、アンデレの近くにいた少年の持っていた「大麦のパン五つと、さかな二匹」の入った「粗末なお弁当」でした。大麦は当時の家畜の餌として用いられ、小麦を買う余裕のない「貧しい家庭」の食べ物でした。
多分その少年は、お腹を空かせている多くの人々がいるのに、自分だけで「お弁当」を食べることは出来ない。少しでも分けてあげたいと思ってその「お弁当」を差し出したのでしょう。それは、隣り人を思う純粋な、本当に「ささやかな愛の業」でした。でも「ガラテヤ書5章」には「尊(たっと)いのは、愛によって働く信仰だけである。」(ガラテヤ書5章6節後半)とあります。
この少年が自分のお弁当を差し出すという「愛の業」が、男の数だけでも五千人、女性と子供を入れれば1万人以上の飢えた人々を養うことになりました。「小さな愛」でも大切です。
今、「ノーベル平和賞」の候補者になりたがっている指導者の話がよく出てきます。その「ノーベル平和賞」の第一回の受章者は、「国際赤十字」の創設と「ジュネーヴ条約制定」に貢献したアンリ・デュナンさんです。彼はスイスのプロテスタントのクリスチャンで、厳格なカルヴィン派の伝統の中で育てられました。成長してスイスの実業家として活躍していましたが、1859年(今から166年前、日本は明治時代の始まる9年前)に、ヨーロッパの「イタリア統一戦争」の「ソルフェリーノの戦い」の戦場近くを通りました。その時、戦争で傷ついた兵士たちが放置されて呻(うめ)き苦しむ姿を見過ごすことが出来ず、彼は敵・味方の区別なく手当をしたと言います。
またデュナンさんは、クリミア戦争で最初の従軍看護婦として参加したナイティンゲールの負傷兵への献身的な看護活動に強い刺激を受け、戦場での負傷者の「保護、救援」に従事する国際組織を作ろうと考え、彼の提案により1863年に「各国の赤十字社」と、「赤十字国際委員会」が発足しました。翌1864年、ジュネーヴ会議において「国際人道法」、「ジュネーヴ条約」とも言われます「赤十字条約」が16ヵ国で締結され、国際組織として成立しました。この「赤十字国際委員会」の任務は、戦争や内乱の犠牲となって傷ついた人に対する保護と援助を行うことと規定されました。
そして今、ガザやウクライナの戦場の最前線で多くの赤十字社員が活躍し、戦時だけでなく私達の社会でも病院と医療活動、災害救援活動、福祉施設など、多岐にわたる保護救援活動が行われて、全世界を包む愛の活動体となっています。その原点は、戦場で放置された負傷兵士たちが呻き苦しむ姿を見過ごせなかった一人のクリスチャンの「愛によって働く信仰」(ガラテヤ書5章6節後半)でした。
話を今日の聖書箇所に戻しますが、自分の回りに空腹で苦しむ多くの人々のことを思って「お弁当」を差し出すという、子供の「愛の業」が「男の数だけでも五千人」「女性と子供を入れれば1万人以上」の人々を養うことになりました。「愛によって働く、神様を見上げる信仰」は結実するのです。
一方、12弟子のアンデレは、その貧しい子供の「お弁当」を見て、1万人以上の人々の必要には応えられないと思いました。彼もピリポと同じく、彼の目の前におられる御方がどのような物を用いても、多くの人々を恵まれる全知全能の「神の独り子」イエス様であるという信仰を持っていませんでした。
現代の私達も、目の前の取るに足りないと思うものを見て、それを主イエス様が豊かに用いられるとは到底思えないことが多いのではないでしょうか。「1+1=2」という当たり前のことしか考えないのではないでしょうか?しかし、主イエス様は私達の思いとは異なる「神の独り子」でいらっしゃいます。
その主イエス様は、だれも相手にしなかった少年の「お弁当」の中から、「5つの大麦のパン」を取り、天の父なる神様を仰いで「感謝の祈り」を捧げられました(ヨハネ福音書6章10節、11節)。そして弟子たちが人々に配り分け与えました(マルコ福音書6章41節)。彼らは自分たちの目の前で、「主イエス様が裂かれたパン」を運んで、1万人以上の人々に配ったのでした。弟子たちは12人で1万人の人々にパンと魚を配ったのですから大変な労力がいったかも知れませんが、彼らはそれ以上に目の前で、飢えた人々全員にパンと魚が分け与えられるという神様の「奇跡」を目の当たりにしたのでした。
この後、一段落ついた時、計算高いピリポも、あまり難しいことは分からないアンデレも、また側にいた他の弟子たちも、「主イエス様の前では人間の計算が通用しない」ことを思い知ったことでしょう。神様のなさることは私達の「考え」や「計算」を超えています(イザヤ書55章8節、9節)。
私達は自分の経験や考え方でなく、常に聖書の御言葉に導かれ、養われて、神様のお考えや思いを知りたいものです。また、「どんな小さな、取るに足りないと思うもの」でも、与えられたものを心から感謝することが大切であることも教えられています。(Ⅰテサロニケ書5章16節~18節)。
あなたの目の前の物をアンデレのように「しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう。」と無視してしまうなら何も起こりません。大切な主の与えてくださる「恵みの機会」を失います。 主なる神様にどんなことでも感謝して行きたいものです。
人々は満腹した後に「パンの屑」が残っていました。主イエス様は無駄にならないように「パンの屑」を拾い集めるように仰いました(ヨハネ福音書6章12節、13節)。そうしたら、「12の籠がいっぱいになった」というのです。この籠はユダヤ人が旅行する時に食料を入れて携帯した籠で、紐が付いて、弟子達が持っていたものでしょう。パン屑をその籠に詰めて翌日の朝食や昼食にしたのでしょう。
信仰の世界は、常識と違う「非常識」ではなく、常識を超える「超常識」の世界です。自分たちの「考え違い」「見当はずれ」があっても、その後、神様の御言葉に従って「愛をもって労する」ものには豊かな報いがあります。
2025年8月24日(日) 聖日礼拝説教要 竹内紹一朗 |