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2025年8月17日礼拝説教要旨

新約聖書 マルコ福音4章35節~41節


        「汝等、静まりて、我の神たるを知れ」 

「激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。ところがイエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、『先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか』と言った。イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。」            
(マルコ福音書4章37~39節)

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」           
(詩篇46篇10節)

「汝等、静まりて、我の神たるを知れ。」          
(詩篇46篇10節[文語訳])

 

今朝は「マルコ福音書」の記事から、主イエス様のお姿を見させていただきましょう。

まず、「その日、夕方になると」(マルコ福音書4章35節前半)とあるのは、主イエス様がガリラヤ湖に舟を浮かべて人々に説教された日(4章1節)の夕方です。伝道活動を終えられた主は、「向こう岸へ渡ろう」(4章35節後半)と言われました。

 「向こう岸」とはガリラヤ湖東岸の地方で、主なる神様を信じる信仰とは無縁の異邦人が多く住んでいました。主が何故そこに行こうとされたか分かりませんが、大変疲れておられたのでした。普段でしたら、主は御自分が大群衆を解散させられましたが(6章45節)、この日は「群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した」(4章36節)とあり、いつもの事も出来ない位に、主は疲れておられました。それで舳(舟の後方)で熟睡されました(4章38節前半)。ある聖書学者は、「これは、主イエス様の『真の人性(人間の性質)』示す。彼は、ほとんど(御)自分の限界まで、否、それ以上に疲れ切っておられた。彼が眠られたという記事は、他には出ていないが、食事と同じく、睡眠をも彼は必要とされた。」と述べています。

 主は、自然界を統べ治められる力強い御方(4章39節)であり、同時に私達と同じ「生身の人間として」生きておられました(ヨハネ福音書4章6節、マタイ福音書4章2節、ヨハネ福音書19章28節他)。ですから、主は「神の独り子」の「神」でありながら、私達と同じ肉体を持ち、罪を犯すことは別として(へブル書4章15節)、「弱さ」と「脆さ」のある普通の「人間となられた」のでした。それは、旧約聖書で「主の誕生・生涯・十字架・宣教等」を預言して、新約聖書の4つの福音書と共に「第5の福音書」とまでいわれる「イザヤ書」にも「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。」(イザヤ書53章3,4節)と記されています。この「彼」とは、「初代教会」以来、「主イエス様」と理解されています。

 更に、「讃美歌121番」には、「馬槽(まぶね)の中にうぶごえあげ・・・貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめしこの人を見よ・・・」とあり、最後に主は、私達一人一人の犯した「数々の罪」の罰を、御自分が代わりに受けて十字架の上で死んで下さいました(讃美歌121番3節)。主は、今も天にて私達一人一人に「助け」と「救い」を与えようと、天の父なる神様に執り成していて下さるのです(へブル書4章15節~16節)。

「マルコ福音書」に戻りまして、「激しい突風」(4章37節)と記されています。ガリラヤ湖は周囲を山に囲まれて、気温の変化で突風が不意に山から吹き下ろして湖面を激しく打つことがあり、静かであった湖面が次の瞬間に大暴風が猛(たけ)り狂う所となることがよくあります。この時も、「激しい突風が起こり」お弟子達は狼狽(うろた)えました。何故なら舟が波にもまれて呆気(あっけ)なく沈み、嵐の中で溺れるしかないからです。

 この時にお弟子達は、こんな事になったのはイエス様が「向こう岸に渡ろう」と言われたからだ。主に従ったのに「なぜ、こんな目に遭うのか」と主を責めたい思いに駆られたのではないでしょうか。

 現代の私達も、神様にお従いしているのに、思いもよらない困った出来事が起こったことはありませんか?「一大決心をして、洗礼を受けたのに、悪いことばかり起こる」「御言葉にお従いしたのに、逆のことが起こって困惑してしまった」という経験があるかもしれません。

 この時も、お弟子達は激しい嵐に見舞われ、危機的な状況に遭遇してしまったのでした。それなのに、イエス様は眠っておられ(4章38節前半)、「無責任極まりない」と思われるような状態でした。弟子たちは主に反感を持ちまして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」(4章38節後半)と痛烈に非難したのでした。

 現代の私達も、弟子達の気持ちが分かるような気がします。しかし、主イエス様は、父なる神様を信頼し切って平安の内にぐっすり休んでおられました。一方、弟子たちは、ガリラヤ湖の怖さを経験して知っているので、神様を信頼する信仰が働かない。それどころか、主イエス様への反感と非難に終始しました。

私たちは、「神様の御心」がすべて分かるのではありません。主は「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、・・・わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章8、9節)と言われます。また、主御自身も「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、後(あと)でわかるようになる」(ヨハネ福音書13:7)とおっしゃいました。「後で、分かるようになる(後、知るべし[文語訳])」は、私達の「信仰生活のキーワード」です。

ですから、私達の立つべき立場は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ(文語訳:汝等、静まりて、我の神たるを知れ)。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。」(詩46編10節)です。どんなことがあっても、主の前に静まり、「御旨に従います」と祈りつつ、聖書の御言葉に聞くことが大切です。

 その御言葉に従って主の御前で静まっているなら、主は、俄然、御自身の栄光を現されます。主は、「『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった」(4章39節)のです。主は、「弱さ」を持つ「真の人」であり、同時に「神の独り子」の「神」として自然界を統べ治め支配され、栄光を現される御方です。まさに、「詩46篇10節」の「後半」の御言葉の成就でありました。

この時、主はお弟子達に「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」(4章40節)と仰いました。主は初めから突風が起きやすい夕刻を選ばれて、舟に乗合せる弟子たちの信仰を「訓練しておられた」ことが分かります。現代の私達も、突然の嵐が人生に吹き荒れることがあります。その時に限って、主は沈黙しておられるかもしれません。しかしその時は、主が「私達の信仰を訓練しておられる時」なのです。私達は先走りせず、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46編10節)とおっしゃる主なる神様を仰ぐなら、必ず、御自身の栄光を顕してくださいます。主を待ち望みましょう。                      

                               2025年8月17日 伝道礼拝 竹内紹一郎