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2025年7月13日礼拝説教要旨

 敵を愛し、憎む者に親切にせよ


                                        

「しかし、聞いているあなたがに言う、『敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために(祝福)を祈れ』。」  
(ルカ福音書6章27節)

 

 イエスは言われた、「敵を愛し、憎む者に親切にせよ」と、これはユダヤ人たちにとっては驚くべきことでした。何故なら、これまで自分たちは「隣人を愛し、敵する者を憎め」と教えられていたので、これは間逆の教えだったからです。ユダヤ人はこれまで「目には目を、歯には歯を」と教えられ、もし目を打たれたら相手の目を打つことが赦されていたからです。また歯を折られたら相手の歯を折ることも赦されていました。これは復讐の精神です。ですから今でもガザから一発の砲弾が打ち込まれたら、その何倍もの砲弾を打ち返しています。

 ところがイエスは「敵を赦してやれ」と言われたのです。マタイ福音書5章44節にも「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言っておられますが、キリスト教は「赦しの宗教」です。イエスも十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのですから」と祈っておられます。これは実に崇高な祈りです。このみ言葉でどれだけ多くの人が救われたか分かりません。また、赦されてはじめて本心に立ち返り救われるのです。

ヨハネ福音書にイエスに赦されて救われた女性の話があります。この女性は評判の悪い女性で、町のなかでは鼻摘みものでした。そして町の人たちはこの女性をイエスのところに連れてきて、イエスがこの女性に対してどう扱うか試みたのです。ところがイエスはこの女性に対して、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と赦されたので、その女性は目が覚めて悔い改めました。そして生まれ変わってイエスの信者となり、イエスが十字架の最後を遂げるまで従いました。赦されたからです。

 列王記下6章20節以下にスリヤの略奪隊のことが書いてあります。このスリヤという国はイスラエルの北に隣接する国で、いつも収穫期が終わる頃にイスラエルに越境して百姓が丹精した収穫物を略奪するので、イスラエルの民にとっては憎い存在でした。

ところがあるとき、預言者エリシャの働きにより、彼らは捕虜になってしまったので、イスラエルの民は喜びました。それはこれまでの敵討ちができるからです。

 そこで王は預言者に「彼らを殺してもいいですか」と言いますと、預言者から意外な返事がありました。つまり「パンと水を彼らの前に供えて食い飲みさせ、その主君のもとにいかせなさい」という返事でした。これはイスラエルの民にとっては意外なことでした。この時代の捕虜は殺されるか、奴隷にされるのが通例だったので。そんなことをすれば彼らはまた侵略してくると思いましたが、尊敬する預言者の言葉でしたから、彼らは言われるままに従い、捕虜に食料を与えました。              

 捕虜たちは、自分たちは殺されるか、奴隷にされるか覚悟をしていましたが、食料が出されても毒が入っているのではないかと半信半疑でしたが、空腹に堪えられずそれを食べました。すると、その後で国境に連れてこられたので、いよいよここで殺されるのかと覚悟をしていたら、釈放されたので捕虜は驚きました。そこで国に帰って王に事の次第を話しましたら、王はイスラエルの寛大な仕打ちにいたく感動し「スリヤの略奪隊は再び、イスラエルの地にはこなかった」と、物語は終わっています。それは彼らが赦されたからです。もしこのとき、普段の恨みを晴らそうと殺していたら、スリヤの王は再び復讐のために新手の軍隊を送り込んできたでしょう。ローマ書12章21節には『悪に負けてはいけない。かえって善をもって悪に勝ちなさい』とありますが、これがクリスチャンのとるべき態度です。

 わたしの先輩が東京の郊外に新しく教会を建てましたので、お祝いに行きました。鉄筋コンクリートの立派な建物でしたので、「よくこんなお金がありましたね」と言うとこんな話をしてくれました。教会の裏の空き地に大きなマンションが建つことになりましたが、その地所に入るためには私道の住宅地を通らなければならず、こんな狭い道路にダンプカーが入るのに反対されて、工事業者は困難していました。        

 そしてある日、施主と工事業者が教会を尋ねてきて、教会の庭にトラックを通らせてほしいと言ってきたのです。牧師はそれを聞いて嫌だなあと思いました。そこで何と言って断ればいいかと、目をつぶって思案をしていました。しかし、教会の庭を通らせてやらないと工事は出来ません。牧師は「こんなときイエス様なら、どう言うだろうか」と考えていましたが、この際、助けるのが親切だと示されましたので、「どうぞお通りください」と言いましたので、牧師の様子を見ていた業者たちは半ば諦めていましたがその牧師の声を聞いて驚き喜びました。

その翌日から、講壇の裏の庭をダンプカーがどんどん出入りしたので、騒音と振動で牧師夫人はノイローゼになるほどでした。ところがある日、牧師が外から帰ってみると礼拝堂の中が真暗なので、どうしだことかと窓を開けると、すぐ外に工事用の戸板が建てられていました。それを見て牧師は腹を立てました。工事が出来なくて困っていたから協力してやったのにこんな酷いことをすると。

 こんなに近くに建物が建てられたら、今後、教会がやっていけなくなると考え、移転することを考えました。そこで不動産屋に売買の相談をしましたが「こんな状態では買い手はありませんよ」と相手にしてくれません。そこで業者と施主さんを呼んで「教会を引越しようと考えています。買ってくれませんか」と言と、一つ返事に「はい、賈わせてもらいます。いくらで賈わせてもらったらいいですか」と言いましたので、あまり値段のことは考えていなかったので、でまかせに「2億3千万円でどうですか」と言うと、施主さんは「はい、ではその値段で買わせていただきます」と即決したのです。

 教会が売れたことを聞いた不動産屋が尋ねてきて、「先生売れたそうですね。一体いくらで売れたのですか」と聞きますので、その値段を言うと業者は驚き、「牧師さんは商売も上手ですね」と言われたので、この建物の相場を聞きますと、1億円もしないということでした。                            

実は施主さんは、マンションが建っても出入口の通路が住宅の中の私道を通らなければならないので、トラブルが起こっては困ると思っていたところだったので、値段とは関係なく「渡りに舟」と買ってくれたのです。そしてマンション側も教会を壊して、そこを出入口の通路とすれば大きい道路から直接に出入りが出来るので一挙両得となったのです。また価格も2億3千万円という法外な値段で買ってくれたのは、工事用のトラックの出入口がなくて困っていたときに、教会が助けてくれた恩に報いたのです。

「情けは人のためならず」という言葉がありますが、まさしくこの言葉のとおりになりました。(よくこの言葉を、「情けをかけたらその人のためにはならないから、情けはかけないほうがいい」と言うふうに思っている人がいますが、これは考え違いです)

                                                   坊向輝國