聖書箇所 ヨハネ福音書5章41節~47節
「ありのままの姿で」
【新聖歌231番】
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勲無き我を 血をもて贖い イエス 招き給う 御許に我行く
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罪咎の汚れ 洗うに由無し イエス 潔め給う 御許に我行く
「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」
(Ⅰヨハネ書1章7節)
前回は、主イエス様が「父なる神様から遣わされた御方」だと証明する「4つのこと」について導かれました。「第一」は、「わたしについてあかしをするかた」(ヨハネ福音書5章32節)と表現された「父なる神様御自身」の証言ですが、その御方は人間が「見ること」も、声を「聞くこと」も出来ません(Ⅰテモテ書6章16節)。
そこで主イエス様は、続いて御自分を証しする「第二」として、「洗礼者ヨハネ」が主を「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ福音書1章29節)と証したこと。「第三」は主のなさった盲人が見え、耳の不自由な人が聞こえる等の「わざ(奇跡)」でした(5章36節)。これらは全て、旧約聖書でキリストが現れて行うと預言された「数々の奇跡」でした。「第四」は、「聖書(旧約聖書)」です(5章39節、40節)。
ユダヤ人は「永遠の命」を頂くために必死になって旧約聖書を学びましたが、「聖書は、わたしについてあかしをするもの」と言われるのに主イエス様の許に来ようとしませんでした(5章39,40節)。その「訳(理由)」について、主イエス様は「今日の聖書箇所(ヨハネ福音書5章41~47節)」に「二つ」語っておられます。「人からの誉れ(栄誉)」(41~44節)と、もう一つは「モーセの律法」(45~47節)です。
第一の「人からの誉れ(人々から尊敬されること)」を求めるなら、「永遠のいのち」から遠いどころか無関係になります。今日の聖書箇所の「41~44節」も一読しても分かりにくい箇所ですが、「キーワード」を見つけるとハッキリします。ここには「二つのキーワード」があり、一つは「誉(人からの栄誉、賞賛)」です、もう一つは「誉」とは正反対の意味や内容を持つ「神を愛する愛」です。
主イエス様はどんなに賞賛され褒められても、人間の心が実にいい加減であることを知っておられ「わたしは人からの誉を受けることはしない」(5章41節)と言われます(2章23~25節参照)。なぜなら、主がエルサレムに入場された時、「祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、『ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に』。」(ヨハネ福音書12章12節、13節)とありますが、5日後の金曜日には「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ」と叫んだ人々が、同じ主に対して「彼らは、わめきたてて『十字架につけよ、彼を十字架につけよ』と言いつづけた」(ルカ福音書23章21節)のでした。「人の心」も「誉(賞賛)」も当てになりません。
更に、一節飛ばした「5章43節」にも「わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。」(ヨハネ福音書5章43節)とあります。分かりやすく翻訳している「リビングバイブル」では「わたしは父の代理として来たのに、あなたがたは喜んで迎えてはくれません。ところが、ほかの人が、神から遣わされたのでもなく、ただ自分の権威を引っ下げて来ると、待ってましたとばかり、手をたたいて迎えるのです。」(同福音書5章43節[リビングバイブル])と記しています。ですから、ユダヤ人たちは人々からの「誉」や「賞賛」や「権威」をしっかりと受け止めますが、「父の名によってきた」ことが「四つの証明」によって明らかな主イエス様を受け入れようとはしませんでした。そこで主は、「互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして(わたし[イエス様])信じることができようか」(4章44節)と言われました。
人々の「誉」「賞賛」を受けることを喜び、「権威を振りかざす」ユダヤ人は、誰一人「救い主イエス様」を信じることはありませんでした。彼らには「もう一つのキーワード」であります「神を愛する愛がない」(5章42節)ので、長く待ち望んでいて、やっと来てくださった「救い主イエス様」なのに、受け入れ、信じることが出来なかったのです。
一方、「誉」や「賞賛」や「権威」とは無縁の人であっても、主はその人を顧み「永遠の命」を与えて、愛してくださいます。今日の週報の裏表紙に「讃美歌の作詞者 シャーロット・エリオット」の顔写真と有名な「聖聖歌231番(讃美歌271番)」の歌詞と原詩を載せました。シャーロットは資産家の家に生まれ、イギリスのお金持ちが集まっている町に住んで、肖像画家として優れた腕を持ち、ユーモアあふれた詩を書いて人生を楽しんでいました。
しかし、30歳の頃から全身が麻痺する病気で伏すようになり絶望の中で毎日を過ごしていました。父親が彼女の苦しみを見かねて、スイスの信仰復興家のマラン牧師を呼びました。彼は「だれでも痛みはありますが、神様は、その人が耐えられる苦難だけを与えられます。そして、その苦難に勝利した人を用いられるのです。神様は、今、弱くて何もできないあなたの、そのままの姿を求めておられるのです」と励まし、「あなたは、ありのままの姿で、あなたの罪を赦したもう主イエスのもとに行きなさい。」と勧めました。
この「あなたのありのままの姿で」という牧師の言葉は、彼女の「魂の奥底」に深く染み込みました。彼女は全身麻痺の「ありのままの姿」で主イエス様を仰ぎ、信じたのでした。その時、神様に愛されている自分を見出して、神様からの平安を得ました。
その後、貧しい牧師子弟の学校を作るためのバザーが計画されましたが、彼女は何の貢献もできず、「自分が生きているのは無意味ではないか」という深い無力感に苦しめられました。しかしその時、彼女を神様の許に導いた牧師の「あなたのありのままの姿で主イエスのもとに行きなさい」という言葉が心に浮かび、それをテーマにして「私のありのままの姿で、何の弁解もなしに、あなたの御血が私のために流されたゆえに、あなたが、きたれと命じていたもうゆえに、神の小羊よ、みもとに参ります」(週報の裏表紙の下の段の【原詩】)との賛美歌を書いたのでした。これは世界中で最も愛されている賛美歌「新聖歌231番」になりました。シャーロットが「私のありのままの姿で」主なる神様にお会いした「体験」と「証」のゆえに、この賛美歌で多くの人々が主を崇めています。
シャーロットには「誉」「賞賛」「権威」など、何の関わりもありません。ただ、「ありのままの姿で」主イエス様が十字架で流された尊い血潮を崇める信仰によって、主の許に行き「永遠の命」「永遠の祝福」に与ったのでした。
現代の私達も「誉」「賞賛」「権威」を求めて齷齪(あくせく)するのではなく、「ありのままの姿で」主イエス様の流してくださった「御血潮」「御宝血」を崇めて参りましょう(Ⅰヨハネ書1章7節)。
2025年7月6日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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