聖書箇所 ヨハネ福音書5章30節~40節
「父なる神様から遣わされた御方」
「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 」
(ローマ書10章17節)
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」
(ヨハネ福音書5章39,40節)
今日の聖書箇所の最初の「自分からは何事もすることができない」(ヨハネ福音書5章30節)という御言葉は、「5章19節」にも「自分からは何事もすることができない」とあります。このように、「ヨハネ福音書」は、同じ言葉や同じ考え方が何度も出て来るのが特徴です。それも「らせん階段」のように「何度もぐるぐる繰り返して上昇する」ようにして、大切な教えを読む者にしっかりと印象付けようしています。
その「5章30節」の意味を分かりやすくするために少し補足しますと、「わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ(父なる神様に)聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかた(父なる神様)の、み旨を求めているからである。」となります。
このらせん階段的な「重要な教え」で大事なことは「聞く事」です。主イエス様は父なる神様に「聞く」ことを最優先にされました。「ローマ書10章」に「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(同書10章17節)とあります。主イエス様が父なる神様から御旨を聞いて行い、祝福を受けられたように、私達も「キリストの言葉」を聞いて、信じて従う時に祝福に与ります。
一方、御言葉を何も聞かずに自分の好き放題をしているなら、徒労に終わります。「傘屋の丁稚」とありますように、一生懸命やっても「骨折って、親方に怒られる」のです。信仰の世界も、主なる神様の御言葉に聞いて従うのでなければ、一生懸命やっても徒労に終わってしまいます。ですから毎週の礼拝で御言葉を聞き、また毎日の静まりの時に聖書の御言葉を少しでも読んで、主の御心を知ることは大切です。
さて、続く「5章31節~40節」には、主イエス様こそが「父なる神様から遣わされた御方(救い主、キリスト、メシア)」であることを証明する「4つのこと」について記されています。
父なる神様は「ただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。」(Ⅰテモテ書6章16節)とありますように、私達には父なる神様を「見ること」も、その御声を「聞くこと」も出来ません。それで、「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ福音書1章18節)とありますように、「ひとり子」イエス様が遣わしなさったのです。
この「ひとり子」である主イエス様が、確かに「父なる神様から遣わされた御方」だと証明する4つのことについて、「5章31節」から記されています。主は「わたしが自分自身についてあかしをするならば、わたしのあかしはほんとうではない」と言われます。確かに、私達も「自分で自分を証明する」ことは難しいことです。それで自分を証明するのに各都道府県公安委員会発行の「運転免許証」等、公の第三者の証明を用います。
主イエス様の時代は、物事を証明するのに公安委員会も免許証もありません。その時代は「2人か3人の証言が一致する」(申命記19章15節)必要がありました。そこで、主が「父なる神様から遣わされた者」であると証明するために挙げられた「第一のもの」として「わたしについてあかしをするかたはほかにあり、そして、その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている」(5章32節)とあります。
ここで「わたしについてあかしをするかた」とありますのは「父なる神様」御自身ですが、既に述べましたように、その方は「見ること」も、そのお声を「聞くこと」も出来ません。そこで主イエス様は、続いて3つのものについて語られます。「第二のもの」として、「洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)」の証言です。彼は、主イエス様に洗礼を授けた後、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ福音書1章29節)と主イエス様のことを弟子たちに証しました。
このヨハネの言葉通り、主イエス様は3年程経って、エルサレムの都のゴルゴダの丘の十字架について 「神の小羊」として「全ての人の犯した罪」の償いを成就するために「尊い血潮(御宝血)」を流して贖いを完成してくださいました(Ⅰヨハネ書1章7節)。
続いて、主イエス様が「父なる神様から遣わされた者」であることを証する「第三のもの」として挙げられたのは、御自分のなさった「わざ」でした(ヨハネ福音書5章36節)。ここに「父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざ」とありますのは、カナ村の結婚式で水を葡萄酒に変えられた奇跡(ヨハネ福音書2章6~11節)から始まり、盲人の目を開けたり(マルコ福音書10章46~52節)、耳の不自由な人の耳が聞こえるようになったり(7章32~35節)、重い皮膚病の人々が癒され清められたりした(ルカ福音書17章11~19節)数々の奇跡です、これらは、旧約聖書でキリストが現れて行うと預言された数々の奇跡です。それこそが、主イエス様が「父なる神様から遣わされた者」「キリスト」である証明となるものだと言われたのです。
そして、「らせん階段」の教えとして再び「父なる神様の証」を述べられました(ヨハネ福音書5章37,38節)。ところが人々は、その神様の「み声」を聞いたことも「み姿」を見たこともなく、「父なる神様の遣わされた」主イエス様を信じませんでした。
そこで、「第4のもの」として、「聖書」が上げられています(5章39節、40節)。ユダヤ人は、「永遠の命」を頂くために必死になって旧約聖書を学びました。しかし、その聖書が、主イエス様が「わたしについてあかしをするもの」「来るべき救い主キリスト」を証ししていると言われるのに、ユダヤ人は目の前におられる主イエス様の許に来ようとしませんでした。しかしペンテコステの日には、聖霊に満たされた使徒ペテロの御言葉の説教によって、彼らが十字架に付けた主イエス様こそ「父なる神様から遣わされた」救い主キリストと分かって、今までの罪を心から悔い改め、主イエス様を救い主と受け入れて、3千人のユダヤ人が教会に加えられました(使徒2章36~42節)。
現代の私達にとって「父なる神様から遣わされた」主イエス様を証するものは、「旧新約聖書66巻」とその御言葉を教えてくださる「聖霊」です。「日本基督教団信仰告白」では、「聖書は・・・教会の拠るべき唯一の正典・・・聖霊によりて…信仰と生活との誤りなき規範なり」と告白します。私達は、聖書の御言葉が語る御心を確り受止め、その御言葉に聞き従って行きましょう。その時、信仰生涯は祝福を受けるのです。
2025年6月22日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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