マルコ福音書10章46節~52節
「盲人バルテマイの信仰」
「わたしの目には、あなたは 高価で尊い。わたしは あなたを愛している。」
(イザヤ書43章4節[新改訳])
「イエスは彼にむかって言われた、『わたしに何をしてほしいのか…行け、あなたの信仰があなたを救った』」
(マルコ福音書10章51-52節)
エリコの町(エルサレムの東約30キロ)に「テマイの子、バルテマイ」という盲人の「物乞い」がいました(マルコ福音書10章46節)。並行記事の「マタイ福音書」では、「すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、・・」(マタイ福音書20章30節)とあり、実際は、「二人の盲人」が癒されましたが、マルコは「バルテマイ」一人だけにスポットを当てて福音書に記しています。聖書学者は、この福音書の記事の特徴を「個人化」と呼んでいます(マタイ28章9節、ヨハネ福音書20章17節他)。同様に、主なる神様は多くの者の中で「一人の人」に御目を留められ、そして「あなた一人」に御目を留めておられます(イザヤ書43章4節[新改訳])。
この盲人のバルテマイは道を通る大勢の足音に「ナザレのイエス」のお出でと知って、突然、大きな声で「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めました(マルコ福音書10章47節)。「ダビデの子」とは、ユダヤ民族の待望する「メシヤ、救い主キリスト」を意味する「重要な呼び名」で、旧約聖書(「ダビデ契約」〔サムエル記下7章〕、歴代誌上〔17章14節〕、詩篇〔89篇、132篇〕、イザヤ書〔9章6-7節、11章〕、エレミヤ書〔23章〕、エゼキエル書〔34章〕)にも繰り返し記されていまして、それをユダヤ教の会堂の礼拝での聖書朗読によって何回も聞かされていました。現代のテレビのCMで何回も聞かされるキャッチ・コピーのように、当時のユダヤ人なら皆がよく知っている「来るべきメシヤ」「キリスト」を表す名前でした。
しかし、一般の人々には、それが誰であるかは分からなかったのです。ところが哀れな盲人の物乞いバルテマイには、「ナザレのイエス様こそ、来たるべきメシヤ・キリスト」と分かりました。何故なら、メシヤが来る「その時、見えない人の目は
開かれ、聞えない人の耳は 聞えるようになる。その時、足の不自由な人は、しかのように 飛び走り、口のきけない人の舌は 喜び歌う。」(イザヤ35章5節6節)と聖書に記されているからです。盲人バルテマイは、自分の不幸な身の上を嘆きながらも、聖書の御言葉に望みを置き、「いつかは
メシヤが来て、自分の目を開いてくださる」と信じる真実な信仰者であったのでしょう。更に、「ガリラヤのナザレ村出身の預言者イエス様は 病人を癒すだけでなく盲人の目も開かれたそうな」(マタイ福音書9章29—30節、12章22節、15章30節)という、街道筋の旅人が話す噂話をよく聞いていたのでしょう。
バルテマイは、「ナザレのイエスのお通りだ」と聞いただけで、一瞬にして自分の目も開けてもらえ、「永遠の救い」を得られるチャンスが来たと捉えることが出来たのでした。現代の私たちも御言葉を齝(にれか)み、(「聖なる動物の牛」〔レビ記11章2-3節〕のように)何度も味わって御言葉の約束に固く立ち、成就を祈り求めるなら、回復の時、救いの日が訪れることになります。(詩篇1篇2-3節)
この大切な「救い主」への信仰を持つバルテマイの前に「拒絶の壁」が立ちはだかりました(マルコ福音書10章48節前半)。バルテマイだけでなく、聖書の中には本物の信仰を持った人々が「拒まれてしまう場面」が幾つも記されています(マルコ福音書10章13節~16節他)。あるテレビ牧師は「主が、直ちに、私達の祈りに答えられない理由は、私達の願いがどれくらい真剣かを見極めるためである。」と諭します。私達も、予想外の困難や拒絶に見舞われることがありますが、それは「私達の信仰が本物かどうか?」「どれくらい真剣に求めているのか?」を試されている時であり、私達が整えられている時です。私達がその願いの成就を受けるに相応しくされるための時間です。決して無駄ではありません。
拒絶に遭ったバルテマイですが、彼は信仰に堅く立って、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫び続けました(10章48節後半)。多分「顔を真っ赤にして」真剣に叫び続けたことでしょう。本音の訴えや思いをぶっつけ、主に押し迫るような切実な叫びを上げる「お祈り」も大切です。主イエス様は、バルテマイの必死の叫びに足を止められ、彼を呼ばれました(10章49節)。
この時、バルテマイは「やっと祈りが答えられ、目が開かれる」と「先取りの信仰」を持って立ち上がった事でしょう(10章50節)。しかし、主イエス様は、彼の求めと信仰を再度確認されました(10章51節前半)。全知全能の主イエス様ですから、バルテマイの心の中の切実な願いを知っておられたのですが、あえて「何をしてほしいのか」と尋ねられたのでした。それは、バルテマイも、そして私達信仰者も、自分の口で「心の内を告白する」ことが大変重要だからです(ローマ書10章9,10節)。主は、あえて、「何をしてほしいのか」「何を信じているのか」と口で言い表すことを願っておられます。ですから、祈りは「声を出して」祈りましょう。また、心の中で信じているだけでなく、公に「信仰を告白する」ことは大切な事です。日曜礼拝で「使徒信条」を「信仰告白」の機会として告白することは重要なことなのです。
さて、バルテマイの心からの信仰に基づく願いを、主イエス様に「自分の口で告白した時」、彼は見えるようになりました。主イエス様の「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ福音書10章52節)という宣言には心が躍ります。また、「信じることの大切さ」「信仰の大切さ」を覚えます。一方、信仰がなければ主イエス様は「癒したくても、癒せない」、不信仰な人々には、「働きたくても、働きようがない」という「信仰の世界の原則」を再確認させられます(マルコ福音書6章4-6節)。
バルテマイは、彼の内なる信仰を公に告白して、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。そして、彼が自分の心の中の思いと信仰を公にした時、彼の目は開かれました。それは単に「肉体の目の視力が回復して、見えるようになった」だけではなく、彼の目の前の御方、ナザレのイエスが本当の「ダビデの子」「メシヤ、キリスト」であって、主なる神様であることに目覚めた瞬間でした。「すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った」のでした。一週間程後に、全ての人の罪を償い、永遠の命を与えるために、ゴルゴダの丘の十字架に向かわれる主イエス様に、「霊の目、信仰の目」を開かれたバルテマイは、これから何が起ころうとも、心から主にお従いしたのでした(マルコ福音書10章51節後半、52節)。ここに、バルテマイの「ご利益信仰」ではない、本物の「十字架を担われる主イエス様に従う信仰」を見せられます。現代の私達も、御言葉の約束に立ち、主のお取り扱いに従い、霊の目が開かれて、主イエス様をしっかりと仰ぎつつ、天の御国目指して一歩一歩、進みましょう。
2025年6月15日(日)伝道礼拝説教要 竹内紹一郎
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