聖書箇所 使徒行伝2章36~42節
「教会の誕生」
「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか』と言った。」
(使徒行伝2章37節)
「罪について、義について、さばきについて、世に その誤りを認めさせます」
(ヨハネ福音書16章8節[新改訳])
「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。」
(使徒行伝2章42節)
ペンテコステの日の朝9時頃、120人程の弟子たちが「一緒に集まって」祈っていると、「突然、激しい風が吹いていきたような音が天から起こって」聖霊が彼らの中に降られ、「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出し」ました(使徒2章1~4節)。
その物音や弟子達の「色々な国々や地域の言葉(外国語)」での説教にビックリした人々が多く集まって来ました。その時ペテロは、「ヨエル書2章後半」の御言葉から「終わりの時には全ての人に聖霊が注がれる」と「聖霊降臨の御業」を説明しました(2章14~21節)。更にもう一つ大切なこととして、エルサレムの人々が「十字架につけよ、十字架につけよ」(ルカ福音書23章21節)と叫んで十字架上で死なれた主イエス様が復活され、天の父の御座の右に上がられたと言う事実を「詩篇16篇と110篇」の御言葉から大胆に語りました(使徒2章22~35節)。
聖霊の力強いお働きと共に御言葉が語られると、人々は御言葉のメッセージに反応します(2章36、37節)。それは説教者ではなく(4章13節「無学な、ただの人たち」)、ペンテコステの日に降られた聖霊が働かれたからです(ヨハネ福音書16章13節)。
ユダヤ人達は、その時「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」(使徒行伝2章37節後半)と反応したのですが、彼らこそが「キリストの教会」を建て上げる人々となりました。彼らの反応は「三つの形」に現れました。
第一は、「罪の自覚」です。ペテロが聖霊に満たされ「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになった」(2章36節後半)と語った言葉を聞いた人々は「強く心を刺され」(2章37節前半)たのでした。聖霊が来られると「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ福音書16章8節[新改訳聖書])とあるように、聖霊の力によって語られた御言葉のメッセージは、聞く人々に「深い罪の自覚」をもたらします。他にも「豊かな慰め」や、「確かな導き」も与えられます。御言葉を知識として受けるだけではなく、神様からの語り掛けとして受け、それに反応して「感謝し」「讃美し」「悔い改め」応答することが大切です。
第二は、人々が真理の道を求める「求道心」を持ち、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」(2章37節後半)と尋ね、「切実な求道」をする者となりました。イスラエルの王ダビデも、部下のウリヤの妻バテシバとの不倫と、そのもみ消しのために夫のウリヤを殺害した時、「神様に従い、神様以外に何者をも恐れない預言者」ナタンによって、「あなたはその(罪を犯した)人です」(サムエル記下12章7節)と姦淫と殺人の罪を指摘されました。この時、ダビデは「罪の意識」にさいなまれ続け(詩篇32篇3節)、「神よ、わが救の神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。」(詩篇51篇14節)という「真剣な祈り」に導かれて、「罪の赦し」を得ました(詩篇51篇17節)。
英国のメソジスト教会の説教者サムエル・チャドウィックは「自分がどうしようもない罪人だと知ったら、自分から十字架を求めるようになる」と言いました。ある牧師は、高校生の時に御言葉のメッセージを聞いて、聖霊に罪を示された時、「しがみつくようにして十字架を見上げた時のことが忘れられない。神は、罪の悲しみを救いの喜びに変えてくださるお方」と告白しておられました。
第三は「回心」です。それは、「この曲がった時代から救われよ」(使徒2章40節)とのペテロの勧めの言葉を受けいれて起こりました(2章41節)。この時、救われるために「私たちはどうしたらよいでしょうか」という人々の問に対する答として、ペテロは「大切な二つのこと」を語りました。
まず「悔い改め」です(2章38節前半)。心の中で「こんなことをしていてはいけない」と思い、生活面でも「その罪から離れる」「遠のく」現実的な対応のことです。エルサレムのユダヤ人は、以前主イエス様を「十字架につけよ」と叫んで死に追いやりました。そのイエス様を今度は神から遣わされた「救い主であるキリスト様」と認めなければならなくなりました。「心の中の思いと主なる神様に立ち帰る行動」の転換が「悔い改め」です。
もう一つは「バプテスマを受ける」(2章38節後半)ことです。これは、主イエスの十字架の死を自分の罪のためと信じる信仰告白を「形(かたち)に表す」ことです。バプテスマを受けるには、この「悔改め」という方向転換と、「主イエス様の十字架こそ私の罪の赦しのため」と信じる信仰が必要です。
この時、ペテロのことばを受け入れ、バプテスマを受けて弟子に加わった者たちは、「三千人ほど」いました(使徒2章41節)。この人々によって「キリスト教会」はスタートしました。
こうして始められた教会は、第一に「ひたすら、使徙たち(新約聖書)の教えを守」(2章42節)りました。現代も聖書66巻(旧約39巻、新約27巻)が、私達の「信仰と生活との誤りなき規範」(教団信仰告白)です。第二に「信徒の交わり」です。当時は「共有の交わり」で「いっさいの物を共有にし‥必要に応じてみんなの者に分け与えた」うるわし交わりでした(2章44節~46節)。第三は「共にパンをさ」くことです。これは「食事を共にする」(2章46節最後)こととは区別され、「聖餐式」のことです。「バプテスマ(洗礼)」の時に告白した「キリスト信仰を繰り返し告白し続ける聖なる礼典」として重んじられてきました。第四は「祈り」です。エルサレムの都の多くの人たちは、ペンテコステに誕生した初代教会の人達がいつも「祈りをしていた」姿を見ました。更に、「日々心を一つにして、絶えず宮もうで(エルサレム神殿に出向き)」(2章46節の前半)をし、そこで「祈り会」をしたのでした。第五に、彼らは「よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし」(2章46節の後半)ました。食事を共にする中で信仰の友との深い交わりが出来る「愛餐会」の恵みを知っていました。山手教会も「愛餐会」で主にある交わりを豊かにして頂きましょう。
そのような初代教会は、主イエス様を讃美する歌が絶えない「讃美する教会」でした(2章47節前半)。そのような教会に「主は、救われる者を日々仲間に加えて下さった」(2章47節後半)のです。山手教会も「神様をさんびし、すべての人に好意を持たれ」て、主なる神様が「救われる者を日々仲間に加えて下さ」る「祈りと讃美と交わりの教会」とさせて頂きましょう。
2025年6月8日(日)ペンテコステ礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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