聖書箇所 ヨハネ福音書 5章16節~23節②
「わたしと父とは一つ」
「わたしと父とは一つである。」
(ヨハネ福音書10章30節)
「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。 なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。」
(ヨハネ福音書5章19,20節前半)
主イエス様は「父なる神様が、安息日にも休むことなく働いておられる」と述べ、「わたしも働くのである」(5章17節)と語られ、「わたしと父とは一つである」(10章30節)と語られましたが、それは私達にとって至極当然と思います。何故なら、私達は「天地の造り主,全能の父なる神を信ず」「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」「我は聖霊を信ず」と告白して、「三位一体(お三方がおひとりでいらっしゃる)の神様」を告白する「使徒信条」に従って、神様を礼拝しているからです。
しかし、ユダヤ人たちは、それを「とんでもないこと」と考え、「ますますイエスを殺そうと計るようになった。・・・イエスが・・・神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたから」(5章18節)でした。ユダヤ人は聖書全体ではなく、一部の御言葉(「十戒の第1戒」:あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない[出エジプト記20章3節])だけを受け留め、「神様はおひとり」と考えていたからです。先週も学んだように「聖書全体」から真理の御言葉を学ばなければなりません。
「出エジプト記」の直前の「創世記第1章26節、27節」には「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り・・・治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記1章26節、27節)とありまして、神様が「三位一体の御方」であることの一部が明らかにされています。聖書学者は「後の時代に、主なる神が『三位一体』であることが明らかになる前に、そのことが、ここ(創世記1章)に顔をのぞかせている」との見解をもっています。
勿論、「ヨハネ福音書」の冒頭にも「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神(イエス様)だけが、神をあらわしたのである」(同書1章18節)とあります。主イエス様が御降誕されて「父なる神様」について語ってくださるまでは、多くのユダヤ人も異邦人も、父なる神様を「近づきがたい神様」と考えていました。「神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。」(Ⅰテモテ書6章16節)とある通りです。
父なる神様はその様な恐れ多い「近づきがたい御方」ですが、また一方で愛と憐みに富んだ御方で、「独り子のイエス様」を私達の代わりに十字架につけて尊い血潮を流させ、私達全ての者の罪の赦しを与えてくださった御方だからです。私達は、その主イエス様に教えていただいた通り、「アバ、父よ」「天のお父様」とお祈りし、また心から礼拝しているのです。
さて、この時、主イエス様は「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」 (ヨハネ福音書5章17節)「わたしと父とは一つである。」(ヨハネ福音書10章30節)と言われたのですが、そのお言葉を聞いてユダヤ人たちは「ますますイエスを殺そうと計るようになった」(5章18節前半)
ことは先ほども申しました。ですから「イエス様、そんなに危ない道を通らず、黙っていた方がいいですよ」と言いたくなる方もおられるかもしれません。でも、主イエス様は何回も「わたしと父とは一つである。」(10章30節)「わたしは神の子である」(10章36節)と言い続けられました。それは、私達の代わりに十字架に架かって事切れて尊い血潮を流されたのが、普通の人間ではなく「神の独り子」でなければならないからです。普通の人間が十字架に架かって死んで血を流しても、罪を犯した罰を受けたにすぎません。でも罪が一つもない「神の独り子」が十字架で尊い血潮(御宝血)を流されたので、全ての人の罪が清められ赦されます(Ⅰヨハネ書1章7節「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」)。ですから、主イエス様はユダヤ人に隠すことなく、御自分が「神の独り子」であることを明らかにされたのでした(5章17節、10章30節)。
更に主イエス様は、父なる神様と御自分の関係を丁寧に説明されました(5章19~23節)。第一に「主イエス様の行動は、父なる神様と同じだ」というのです(5章19節)。当時の2千年前のユダヤ人の家庭では、子供は父親の仕事を見て、そのまま真似て仕事を覚え、一人前になりました。主イエス様の父親のヨセフは大工でした。主は、幼い時から父ヨセフの背中を見て育たれました。その仕事場の姿をよく見て、しっかりと真似て、仕事を覚えました。そして長男であった主は大工として働き、苦労して何人もの弟たちや妹たち(マルコ福音書6章3節)を育てたと思われます(讃美歌121番1節参照)。ユダヤ人の使徒パウロも、どんな時でもどんな所でも生きていけるよう手に職をつけるために、父親から「天幕(テント)つくり」の技術を教えてもらって、「天幕造り」(使徒18章3節)の職人となりました。
そのようなユダヤ人社会を生きられた主イエス様は、「父なる神様と御自分」の関係をユダヤ人の家庭の「親子関係」そのものと同じものとして「父のなさることであればすべて、子もそのとおりにする」(ヨハネ福音書5章19節後半)と語られたのです。
更に、その親子関係を支えるのは「親と子の愛」です。また、父なる神様は「みずからなさることは、すべて子にお示しになる」(5章20節前半)とあります。主がなさった「べテスダの池の38年間の長患いの病人の癒やし」(5章前半)は、父なる神様が主に「そうしなさい」とお示しになった肉体の「癒しの御業」でした。続いて「それよりもなお大きなわざを、お示しになる」(5章20節後半)とありますのは、「肉体の癒やし」よりも「大きな業」である「罪と汚れを赦されてきよめられ、永遠の祝福を得る」魂の救いのことを意味しています。ですから主は、続いて「父が死人を起して命(永遠の命)をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命(永遠の命)を与える」(5章21節)と語られるのです。
最後に、「生きること」「死ぬこと」そして「正しいさばき」は神様の領分です。父なる神様は、それらを御自分の「独り子イエス様」に委ねられました(5章22,23節)。
主は、これらの事が父なる神様と神の独り子の主イエス様の「父と子の関係」だとユダヤ人に説明されました。それはまた、現代の私達への説明でもあります。
「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神(イエス様)だけが、神をあらわしたのである。」(ヨハネ福音書1章18節)とありますように、父なる神様の代わりとなり「お姿」をハッキリと表されている主イエス様を「真の神」として心から敬い、礼拝して従って参りましょう。
2025年5月4日聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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