本文へスキップ

message

2025年4月20日礼拝説教要旨

       イエスはよみがえられた


「この御使は女たちに向かって言った、『恐れることはない。あなたがたが十字架にお掛かりになったイエスを捜していることは、わたしにはわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりによみがえられたのである。イエスを納めていた場所をごらんなさい・・・』」           
(マタイ福音書28章6節)

 

 キリスト教の大切な信仰は「十字架」と「復活」です。この「十字架」はただイエスがローマ兵に処刑されたというだけではなく、イエスの十字架の死によって、わたしたちの罪の贖いが完成(成就)したのです。ヨハネ第一書1章7節に「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」とあります。つまりイエスが十字架上で流された血潮によって、わたしたちの罪の贖いが完成したのです。

 次に、「復活」は、イエスがサタンの死の力に打ち勝たれて墓から復活されたというだけではなく、わたしたちも共に復活するという約束が成就したことを示すものなのです。ヨハネ福音書11章25節に「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信ずる者は、たとえ死んでも生きる。また、生きていてわたしを信ずる者は、いつまでも死なない」とありますが、イエスの復活はわたしたちにもその約束の永遠の命を与えて復活する希望が明らかにされたのです。ですから世界人類は復活祭を自分のこととして心から祝っているのです。

 宗教的に熱心なある人が、どの宗教を信じたらいいのかと、いろいろな宗教を研究したそうです。そして最後に「キリスト教には復活がある」と言ってクリスチャンになった人があります。また先日、本屋で僧侶だった人が牧師になったという、その経緯を書いた書物を見つけて、興味をもって立ち読みをしました。

 その人は現在は牧師として活躍をしていますが、その前は仏教の僧侶でした。しかし何か物足りないものを感じて聖書を読みはじめてイエスの復活の記事に接し、また前掲のヨハネ福音書11章のイエスの復活の記事に接したときに回心し、そのみ言葉に捕らえられて神学校に行って勉強して牧師になったというのです。そのようにイエスの復活は、また復活の信仰はわたしたちに生きる希望と勇気を与えてくれるのです。

 エマオ途上にあった弟子たちはイエスの十字架の死をみて失望落胆して郷里に帰る途中でしたが、復活のイエスに出会ったとき、彼らは「お互いの心が内に燃えたではないか」と言って、再びエルサレムに立ち返りました。そして弟子たちに復活されたイエスに出会ったことを報告し、イエスの復活を大胆に証しをする者になりました。

 このようにイエスの復活は、わたしたちに生きる希望を与えるだけではなく、死に対する恐れを取り除かれるのです。ヘブル書2章15節に「それは死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯奴隷となっていた者を解き放つためである」とあります。

 人間は誰でも死を恐れます。それは死そのものを恐れるというよりも、死の結果を恐れているのです。つまり、死の後に「キリストの審判」があるからです。しかしイエスは、その死によってわたしたちの罪の贖いを完成し、信ずる者の罪を赦してくださったのです。ですから、「信ずる者は審かれない」のですから、死を恐れることはありません。

 わたしは少年時代(12歳のとき)に母と姉がつづいて死別しましたので、死の恐怖の奴隷となって、随分と暗い少年期を過ごしました。しかし復活の信仰を与えられてからは、その死の恐怖から開放され、今日まで平安な日々を過ごしてきました。

 「信心なんて弱い者のすることだ」と強いことを言っていたお爺さんが、病気になって町の病院に入院しました。ところが夜になると「このまま死んでしまうのではないかと考えると恐ろしくなり、一晩まんじりとも眠ることができませんでした。そんなことが数日間続きましたので、娘さんは自分の行っている教会の牧師に来てもらいました。

 牧師は、神様のことから、イエス・キリストのお話におよんで、最後に十字架と復活の話になったとき、そのお爺さんは話の終わるのを待ちかねたようにして、自分のほうから、「いま洗礼を授けてください」と願い出て、その場で洗礼式となりました。

 その後、お爺さんは恵まれたクリスチャンになられましたが、数年後に天国に召されました。その臨終でお爺さんは手を高々と上げて「万歳、万歳、わたしはこれから天国に凱旋します」と言って息を引き取られたのです。見事な、そして平安な最後でした。
                                                   坊向輝國