聖書箇所 ルカ福音書15章1節~24節
「父なる神様の愛」
「彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」
(ルカ福音書15章17節~20節)
「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」
(Ⅱコリント書7章10節)
「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」
(詩編51編19節)
「十戒」の「第5戒」の「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20章12節前半)には、忘れてはならない「前提」があります。「あなたに神様を教えてくれた」ので「あなたの父と母を敬え」です。人が生きていく上で最も大切なこととして「子どもに神様を教える」ので、「あなたは敬われる」のです。その中で最も大切なのは「父なる神様の愛」を教えることです。主イエス様は、この聖書箇所で「父親の愛」から「父なる神様の愛」を教えておられます。
「活水の群」の創設者の柘植不知人先生は、自伝の『ペンテコステの前後』に親御さんの愛を感じられたことが「3回」記されています(同書新版、15~19、20~22頁)。皆様の中にも、心に迫る「親御さんの愛」を体験して来られた方があるかも知れません。今日は、私達の真の親である「父なる神様の愛」について学びます。
今から2千年前のユダヤの国の財産分与は、父親の財産を分ける時に兄は弟の2倍を受けることになって、弟の分は父親の財産の1/3となります(申命記21章17節)。この時、弟息子は貰える者は全て貰い、不動産は全部を金に換え、一刻も早く家族と故郷に「おさらば」して遠い国へ行きましたが、何か確固とした計画や志はなく、「そこで(遠い国で)、放蕩に身を持ちくずして財産を使い果たした」(ルカ福音書15章13節)のでした。 その財産たるや、「雇い人が大ぜいいる」(15章17節)ので大層なものですが、その1/3を全て使い果たし、無一文になりました。
このバカ息子に対して、父親の姿は「お人好しの親バカ」としか見えないかも知れませんが、その後の展開を考えますと、「恐らく父親は、自分の息子がその後いかなる道を辿るか、全てを見通していた」と考えられます。柘植先生のお母さんが、「たぶんおまえは落ちぶれて裏口から帰ってくるだろうと思って、いつもここで寝ないで待っていた」(『ペンテコステの前後』新版22頁)と言われたのと同じように、「無一文になって、落ちぶれて帰って来るに違いない」と考えて、来る日も来る日も息子の帰りを待って、その姿を見落とさないように、待ち構えていた父親の姿がありました(15章20節)。
また父親は、初めから「息子に思いをとげさせよう。それが彼を『本心に立ちかえらせ』、『本当の幸せの道』を悟り、その『幸せの道』に至らせる」と考えていたのではないでしょうか。でも、父親自身はこの事で「全財産の1/3」を失う大変な犠牲を払うことになります。私達の父である神様も、私達が「本当の幸せの道」に気付くために、大きな大きな犠牲を払っておられるのではないでしょうか。
下の息子が放蕩の限りを尽くして、無一文になった時(15章13節)、「金の切れ目が縁の切れ目」と、今まで親しくしていた友達も離れて行ったことでしょう。そして、よりによってその時に「ひどい飢饉があった」ので、助けてくれる友達もなく、食べるものにも困り始めました(15章14節)。更に、ユダヤ人の忌み嫌う「豚飼い」に身を落とし、信仰を捨て外国の宗教の奴隷になっても「何も(食べる物を)くれる人はなかった」のでした(15章15、16節)。もうそれ以上、堕(お)ちようのないところまで堕ちた下の息子でした。
泥まみれ悪臭まみれで心の中もズタズタの下の息子でしたが、ここで彼は「本心に立ちかえっ」(「新共同訳聖書」「聖書協会共同訳聖書」では「我に返って」、「現代訳聖書」では「やっと自分の悪かったことに気付き」、「リビング・バイブル」は「やっと目が覚めて」)たのでした(15章17節前半)。
下の息子は、もうこれ以上堕(お)ちようのないところまで堕ちた惨めな自分を見つめつつ、故郷の父親の許にいた時の祝福された生活を思い出したのでした(15章17節後半)。そして「今の苦しい生活」の原因が、「父親の許を離れたこと」だと明確に悟ったのでした。彼は、父親の許に帰る決心をしました。更に、「どんな償いでもします」「雇い人の一人にしてください」と「悔い改めの実を結ぶ」決意もしました(15章18節、19節)。
彼は自分の心の中の決意を行動に表して、父親の許に帰るために一歩一歩、歩み続けたのでした。多分、空腹のために「右にヨロヨロ、左にヨロヨロ」、途中でしゃがみ込んだかも知れませんが、「父親の許に帰るしかない」との思いが、再び彼を立ち上がらせて実家に向かわせたのでしょう。そして、実家が見える所まで来た時、まだだいぶ離れていましたが、何と父親の方が彼を見つけて走り寄ってきたのでした(15章20節前半)。
豚飼いの汚れたボロ着を着て、まっすぐに歩くことも出来ない程に空腹と疲れで傷み切った下の息子の姿を見て、父親は「憐れに思い」走り寄って、首を抱き、「今までの全てを赦すよ。赦しているよ。」という徴(しるし)の「接吻」をして下の息子を受け入れたのでした(15章20節後半)。
この時、下の息子は「父親へのお詫び」と「心からの償いの決意の言葉」を述べようとしましたが、父親はそれを途中で遮ってしまって「よく帰ってきた。お前は私の本当の息子だよ。お前の罪を全て赦しているよ」との気持ちを込めて、(1)「いちばん良い、最上の着物」を着せ(2)「息子の権利を回復する、印章(はんこ)付の指輪」をはめさせ、(3)「奴隷ではなく、自由人の履く履物」をはかせたのでした。更に「年一度しか食べられない、上等の肥えた子牛の肉」をもって大宴会の用意をしたのでした(15章21~23節)。そして、「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」大いに喜び祝おうと「祝宴が始まった」(15章24節)のでした。父親の喜びが伝わって来ます。
以上は、2千年前のユダヤの国の放蕩息子を愛し抜く「父親の愛を語るお話」ではありません。主イエス様が「父なる神様の御心(御愛)」を示すために語られた譬えです。
父なる神様は「下の息子」のように、御自分の許から離れて、「神なき人生」「真の豊かさを失った人生」を送る人々が、いろいろな事柄に取り扱われて「本心に立ち帰って」御自分の許に帰ってくるようにと待っておられるのです。父なる神様のこの御心を知って、今、神様の御許に立ち帰りましょう。神様はあなたを待っておられます。
2024年12月15日(日)第3アドベント(伝道)礼拝説教要旨 竹内紹一郎 |