迫害する者のために祈れ
「『隣り人を愛し、敵を憎め』といわれていたことはあなたがたの聞いているところである。しかしわたしはあなたに言う、『敵を愛し(赦し)、迫害する者のために祈れ。こうして天にいますあなたの父の子となるためである』。」
(マタイ福音書5章43節)
この『敵を愛し(赦し)、迫害する者のために祈れ』というイエスの教えを聞いた時、ユダヤ人たちは驚きました。何故なら、これまでの自分たちが教えられてきたこととは正反対の教えだったからです。彼らは「隣り人を愛し、敵を憎め」と教えられていたからです。
また38節には「目には目を、歯には歯を」とありますが、これはもし自分の目に危害を加えられたら、相手の目に相当の復讐をしてもいいというのです。また歯を折られたら相手の歯を折ってもいいというのです。
ところがイエスが唱えたのは「赦し」であったので、ユダヤ人たちは驚いたのです。事実、イエスご自身も十字架で処刑されるとき、『父よ、彼らを赦してください。彼らはなにをしているのかわからないからです』と、自分を迫害する者のために祈っておられます。(ルカ福音書23章34節)
ローマ書12章21節に『善をもって悪に勝ちなさい』とありますが、悪に対して悪を報いるということはさほど難しいことではなくても、悪に対して善をもって報いることは、よほど神から力をいただかなければできないことです。
列王紀下6章23節に、トタンの町で捕らえられたスリヤの略奪隊のことが書いてあ りますが、この当時「北イスラエル王国」の北方にスリヤという国があり、毎年収穫期の終わった頃になるとやって来て、百姓が1年間丹精込めた収穫物を略奪していくので、イスラエルの人たちからは憎まれる厄介な存在でした。
ところが預言者エリシャの力により彼らを捕虜にすることができたのです。喜んだヨ ラム王は預言者のところにきて「この捕虜を殺してもいいですか」と言ってきたのです。これは積年の恨みを晴らしたいと考えたからです。この当時は戦争で捕虜になった者は殺されるか、奴隷として売られるのが慣行だったからです。
ところが預言者の答えは「彼らにパンと水を与えて飲み食いさせ、主君のもとに帰せ」というのです。これでは積年の恨みは晴らすことはできません。でも尊敬する預言者の言うことですからその通りにして、彼らに「盛んなふるまい」をして解放しましたので、王はイスラエルの善意を感謝して『略奪隊は再びイスラエルの地にはこなかった』と話を結んでいます。もしこのとき、当時の習慣のとおりに捕虜を虐殺したりしていたら、スリヤの王は復讐のために新たな軍隊を送り込んできたに相違ありません。これこそ「善をもって悪に勝った」のです。
わたしたちもこの世の人々から迫害を受けたり、無理な取り扱いを受けても、クリスチャンは人を憎んだり、恨みをもったりはしません。その迫害する者を赦していくのです。
わたしの友人が東京の郊外に新しく土地を得て教会を建てましたので、お祝いに行きました。広い敷地に大きな教会が建っていましたので、よくこんな資金があったと感心していましたら、その友人はこんな話をしてくれました。
教会の隣りの広い山林が宅地として整理され、そこにマンションが建つことになりました。ところが、いざ工事を開始するというときになって、そのマンションの予定地を取り囲むようにして建っている住民から、こんな狭い私道に工事の車が出入りするのは困る」と反対に合い、困った建築業者と施主さんが教会に来て「教会の敷地に工事の車を通してほしい」と言ってきたのです。友人は教会の敷地をダンプカーが通るのに抵抗を覚え、どう言って断ったらいいか、しばらく目をつぶって断りの言葉を考えていました。
そのとき、「こういう場合、イエスならどうするか」と示されました。そこで「いいです。どうぞお使いください」と答えました。建築業者たちは牧師が目をつぶって返事がないので、もう駄目かと諦めようとしたときにこの返事があったので、彼らは喜びました。「有り難うございます。では幾らお払いすればいいですか」と言いますので、その牧師は「いいです。お金はいりません」と言ったものですから、施主さんたちは二度驚いて帰っていきました。
その翌日から建築工事がはじまりましたが、朝早くから礼拝堂の講壇の裏をダンプカーがガタガタと走るので、朝から晩まで地震かと思うような振動に、奥様はノイローゼのような状態になってしまいました。ところがある日、牧師が外から帰って来て驚きました。礼拝堂が真っ暗なのです。窓を開けて見ると教会の敷地いっぱいのところに工事の矢板が張っていたのです。
「折角親切にしてやったのにこんな酷いことをする」と腹が立った牧師は、友人の弁護士に相談したところが、「工事を差し止めすることは無理だ。慰謝料もたいしたものは取れない」と教えられましたので、教会を移転することに決めました。そして近所の不動産屋に仲介を依頼しましたが、引き合いがあってもこんな暗い建物など買い手がつくはずがありません。
そこで施主さんと建築業者を呼んで、「こんな状態では教会としてやっていけないから、余所に移転したい。買い取ってくれ」と交渉をしました。すると施主さんは即座に「買い取らせていただきます。ところで幾らご希望ですか」と言いますので、その先生は「2億3千万円ではどうですか」と、何の根拠もなく口から出まかせに言いましたら、「分かりました。その金額で買い取らせていただきます」と即決したのです。
教会が売れたことを知った不動産屋がやってきて、「先生、教会が売れたそうですね。いくらで売れましたか」と聞きますので、「2億3千万円です」と正直に答えますと、不動産屋は「先生は商売もお上手ですね」と言って驚いて帰っていきました。そのとき「いくらが相場ですか」と聞きますと、「1億にもならない」ということでした。勿論、施主さんもそのことは重々承知のことですが、工事の車が出入りするところがなく困っているときに、教会は心よく通らせてくれ、しかも保証金も全然要求しない教会の態度に感謝して、なんとかして教会の要求に答えたいという気持ちから法外な値段で引き取ってくれたのです。
そのお金で教会は郊外に広い敷地を取得し、立派な教会を建てることができました。
また業者もその土地をマンションの玄関口として、道路から直接出入りすることができるようになり、一挙両得の解決となりました。
「情けは人のためならず」という諺がありますが、多くの人はこれを誤解しているふしがあります。つまり「人に情けをかけることは、その人のためにはよくない」と理解するようですが、ほんとうは「人に情けをかけておれば、いつかは自分のためになることがある」と言うのが正解です。(言葉の百科事典)]
坊向輝國
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