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2024年12月1日聖日礼拝説教要

聖書箇所 ヨハネ福音書3章22節~36節①     


       「私達の人生の主役」

「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。 
(ヨハネ福音書3章27節)

「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。」 
(Ⅰコリント書15章10節)


「あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる(汝らの中うちに汝らの知らぬもの一人たてり                   
 
(
ヨハネ福音書1章26節[口語訳・文語訳])

 

主イエス様は、それまで「ユダヤ地方」にある「エルサレムの都」で、ユダヤ教のラビ(教師)であり、更に教師を養成する「神学校の校長」のニコデモと話され、個人伝道をされていました。そのエルサレムから離れて、同じく「ユダヤ地方」に行かれたとあります。多分、ごつごつした岩と砂原の「ユダヤの荒野」に行かれ、その所を流れる川で「バプテスマを授けておられた」のでしょうが、実際は、弟子たちが洗礼を授けているのを主イエス様は見守っておられたのでした(ヨハネ福音書4章2節)。一方、洗礼者ヨハネの方も、以前いた場所の水か少なくなったのか、「水がたくさんあった」アイノンという場所で、人々に「バプテスマを授けていた」のでした(3章22節~23節)

その時期は「まだ獄に入れられてはいなかった」とあります(3章24節)。洗礼者ヨハネが、ガリラヤ地方の領主のヘロデ・アンティパスの「不倫」を「よろしくない」「神様の御心に背くものだ」と訴えて投獄されました(マタイ福音書14章3,4節)。その「投獄」の前の出来事がここに記されています。

その時、清めの論争が始まりました(3章25節~26節)。ひとりのユダヤ人が、多分「イエス様のバプテスマの方が、ヨハネのバプテスマよりも勝っている」と言ったので(3章26節後半、4章1節前半参照)、洗礼者ヨハネの弟子たちは「苛立ち」を覚えたのでしょう。 

 それに対して、洗礼者ヨハネは弟子たちに「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」と言いました(3章27節)。「人々がイエス様の方に移っていくのは、神様がそのようにさせておられるからだ」という意味でしょう。これは、ヨハネだけでなく「主なる神様を信じるクリスチャンの皆さんの立ち位置」です。

喜寿を迎えられたある牧師先生は、説教の中で「30代は『開拓伝道をし、マスメディア伝道も手掛けた』と思っていたが、『(神様に)開拓伝道をさせていただき、マスメディア伝道もさせていただいた』のです。・・・60代から『大都市で聖書講義の定例会をしてきた』と思っていたが、『(神様に)定例会をさせていただいた』のです。70代『毎日5分で聖書が学べる全5巻シリーズを出版した』と思ったが、『(神様に)5巻シリーズを出版させていただいた』のです」。「自分が、自分が・・・」と思ってきた。でも「全ては神様がさせてくださった」と分かって涙を流しながら、神様への感謝を述べておられました。私達に関わる全ては「神様の恵みによる」のです。それ以上は「私達には与えられていない」のです。

パウロも「コリント人への第一の手紙」で「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。」(同書15章10節)と告白しました。

教会の働きだけでなく、私達の日常生活の仕事も家庭生活も学校での学びも、全てにおいて「自分がした」のではなく、それらは「神様の恵み」によるのです。深谷の教会の高齢の信仰者も、「今に至るこそ、主の恵みなれ」と、必ず祈り出されました。私たちは「神の恵みによって、・・・今日あるを得ている」のです。全ては主なる神様によることであり、主の恵みなのです。ですから「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。」(ヨハネ福音書3章27節)のです。

 ところが、洗礼者ヨハネの弟子たちは理解できませんでした。そこでヨハネは、何度も弟子たちの前で「自分は救い主がおいでなるために、前備えをする先駆者だ」と言ってきたので、弟子たちこそ「わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である。」「主役はキリスト・イエス様であって、私は脇役だ」ということが分かっているはずだと言いました(3章28節)。更に、お弟子の誰もがよく知っている「結婚式」で、花婿の友人こそ「主役」の花婿の喜びを共に喜び、満ちた足りる者であり、大切な「脇役」だと諭したのでした(3章29節)。

 結論として、ヨハネは「彼(イエス様)は必ず栄え、わたしは衰える。」(3章30節)と語りました。この言葉についてある牧師は、「彼の最後のことばは、人の哀感を誘うものがあるが、それにもまして、神のみこころを正しく知った者の信仰の告白として、深く私たちの胸を打つ」と語られました。

でも私達は、ともすると「神のみこころを正しく知った者の信仰の告白」を忘れて、「自分は、自分は・・・」と我が道に走ってしまいます。それは、私たちの目に「主役」の主イエス様が見えていないからではないでしょうか。映画でもドラマでも「主役」の俳優さん、女優さんはすぐ分かります。でも、私達の人生のドラマの「主役」は私達の肉眼では見えません。「ヨハネ福音書1章」には、「あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる 」、文語訳ですと汝らの中(うち)に汝らの知らぬもの一人(ひとり)たてり」(1章26節)とあります。

私達が、今、礼拝しています主イエス様は「教会の頭(かしら)」でいらっしゃり、十字架で事切れ、全ての人の罪・咎・汚れの一切を赦して清める尊い血潮を流し、更に私達の代わりに「陰府」にまで下って三日目に甦られた御方です。そして今日も「山手教会の頭」として、この礼拝堂に、そして皆さんお一人お一人の人生というドラマの「主役」として「一人(ひとり)立」っておられるのです。

 この信仰の世界の事実を忘れてしまうと、洗礼者ヨハネの弟子たちのように、どんでもない間違いを犯して祝福を失います。私達にとって「最も大切なこと」は、私達の礼拝また人生というドラマで、この「主役」である御方を「信仰の目」をもって崇め、進んでいくことです。

      2024年12月1日(日)第一アドベント礼拝説教要旨 竹内紹一郎