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2024年9月1日聖日礼拝説教要

聖書箇所  ヨハネ福音書 2章13節~17節  

           「宮きよめと礼拝」

「わたしの父の家を商売の家とするな」
ヨハネ福音書2章7節

「よく聞いておきなさい。この世の富を正しく使って、自分のために信仰の友を作ることです。そうすれば、この世の生を終えた時、あなたがたは、永遠の住いで、その友達と一緒に過すことができるでしょう。この世において神様から任されたものを忠実に管理する人は、神の国の事にも忠実であり、この世において神様から任されたものを不忠実に管理する人は、神の国の事にも不忠実です。ですから、あなたがたがこの世において神様から任された富を忠実に管理しなければ、どうしてあなたがたは本当の富を神様から任されるでしょうか。」       
ルカ福音書16章9節~11節[現代訳聖書]

「もしあなたがたが不正の富(お金、この世の富)について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。」                                 
ルカ福音書16章11節

 

ユダヤの国には、当時「3つの大きなお祭り」がありました。春先の時期にお祝いす「過越の祭」には、毎年、全てのユダヤ人男性が参加するように決められていました。主イエス様も、その「過越の祭」をお祝いするために、エルサレムの都に上られたのでした(ヨハネ福音書2章13節)。その祭りは、イスラエル民族が「エジプトの奴隷」から解放されて約束の地カナンに向かう時に神様がされた救いの御業を記念して、毎年エルサレム神殿で盛大に行なわれるユダヤの国の最大のお祭でした。

 ところが、そこに行かれた主イエス様の目の前に広がっていた光景は、目を覆いたくなるような酷いものでした。「宮の庭」(2章14節)と記されている「異邦人の庭」は、本来ならユダヤ教に改宗した敬虔な異邦人(外国人たち)が礼拝する場所ですが、そこでは神殿礼拝に使う「犠牲の動物(牛や羊やヤギやハト)」を売る商人が「すわり込」んでいました。また、エルサレム神殿への献金は「ユダヤの国のお金」に両替えしなければならないので、その両替商で溢れかえっていたのでした。その商人たちは、法外の値段で犠牲の動物を売り、外国からの敬虔な礼拝者の足元を見たような、法外の為替レートで両替をして暴利をむさぼっていたのでした。ですから、主イエス様は怒られました(2章14~16節)

以前、この聖日礼拝で学んだ「マルコ福音書」では、主イエス様が義憤に駆られて「宮きよめ」をなさったのは、十字架にかかって私たちの罪を償うために尊い血潮(御宝血)を流された受難週の出来事だったのではないかと思われる方があるかもしれません。しかし、「ヨハネ福音書」では公の伝道生涯の初めの時期に行われました。宗教改革者のカルヴァンなどは、「宮きよめは2回あった」とします。それほどにエルサレム神殿は、神様に礼拝を捧げる聖なる所でありながら、世俗に塗れ、不当な利潤を稼ぐ悪徳「商売の家」と成り下がっていたのです。

 ですから、主イエス様は「わたしの父の家を商売の家とするな」(2章7節)と厳しく語られたのでした。しかし、人間は罪深いものですから、主イエス様が一回言われた位では、すぐに「元の木阿弥」になっていたのはと思います。私は、「宮きよめ」は2回あったのではなく、主イエス様が過越の祭でエルサレム神殿に詣でられた時には、毎年のように義憤を覚えて「宮きよめ」をなさったのでないかと思います。そして、主イエス様が最後の「宮きよめ」をなさった年から数えて40年後の紀元(AD)70年には、堕落したエルサレム神殿もエルサレムの都も、ローマ軍に攻められて全て破壊され焼き払われました。

ある地方の教会に、別の地方から転居されて来られた女性クリスチャンが礼拝に出席されました。長年小学校の先生をされ、定年退職で悠々自適の年金暮らしをし、退職金もたくさんあったようです。その方が教会の礼拝や交わりに加わり、教会員たちと親しくなられ頃、同じクリスチャンだからということで周りの人を信頼されるようになられました。そこで、教会員の一人が元先生に高級衣料の服を売るようになりました。そのうちに、その額があっと言う間に大きくなり、しかも領収証の累計と支払った額が大きく違っていたのが分かり、元先生の女性はカンカンになって怒られたというのです。結局、「出る所へ出ましょう」ということになってしまったので、間に入って努力した牧師先生が仲裁の労を取られたのすが、役に立たず、逆にその仲裁の不手際で牧師が責任を取らされ、辞任寸前まで追い込まれました。教会もぐちゃぐちゃで、当事者の一方は教会を離れ、不手際の牧師先生を責めた人々も教会を去りました。その時、牧師も商売をした当事者も悔い改め、以後、その教会員は教会の中では商売はしなくなったとのことでした。

教会は、この世のお金とは「無縁の存在」ではありません。主イエス様は、「この世のお金、富」のことを「不正の富」と言われ、「もしあなたがたが不正の富(お金、この世の富)について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。」(ルカ福音書16章11節)と言われました。分かりやすい翻訳で定評のある「現代訳聖書」では、「よく聞いておきなさい。この世の富を正しく使って、自分のために信仰の友を作ることです。そうすれば、この世の生を終えた時、あなたがたは、永遠の住いで、その友達と一緒に過すことができるでしょう。この世において神様から任されたものを忠実に管理する人は、神の国の事にも忠実であり、この世において神様から任されたものを不忠実に管理する人は、神の国の事にも不忠実です。ですから、あなたがたがこの世において神様から任された富を忠実に管理しなければ、どうしてあなたがたは本当の富を神様から任されるでしょうか。」(ルカ福音書16章9節~11節)とあります。主イエス様は、私たちに任せられた「この世の富」を忠実に管理する事を望んでおられます。その御心を行う人にこそ、「永遠に至る本当の富を任せて」下さるのです。

山手教会の教会学校も、コロナ禍で一時礼拝ができず存続が危ぶまれておりました。でも牧師として、教会の将来のためには何としても再開しなければとの思いがあり、何人もの方々がスタッフとなってくださって献身的にご奉仕してくださり継続できています。その中で、毎週子供たちと一緒に祈る「献金の祈り」に「天の父なる神様。みんなと共にさんびをささげ、聖書のお話を聞きました。ありがとうございます。この一週間、天の父なる神様と人とにつかえるしるしとして献金をおささげしました。どうかわたしたちを用いてください。祝福してください。イエス様のお名前を通し感謝してお祈りいたします。アーメン 」とあります。

お金にまみれて堕落したエルサレム神殿に対して「宮きよめ」をなさった主イエス様は、また一方で「不正な富」である「この世の富」を忠実に管理するなら「永遠にいたる、本当の富を任せ」るとおっしゃり、「この世の富」の献金で、「神様、わたしはあなたのものです。あなたと御言葉にお従いします」「神様、あなたに身を捧げます」との決意をさせて下さるのです。
            2024年9月1日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎