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2024年8月18日聖日礼拝説教要

聖書箇所 ヨハネ福音書9章1節~12節


         「信仰の目が開かれる」 

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」
(イザヤ書43章4節)

「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」
 (ヨハネ福音書8章31節~32節)

 「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 」                 
(ヨハネ福音書9章3節)


400年ほど前のフランスに、パスカルという有名な数学者で哲学者でもある人物がいました。彼は、「人の心には、この世の何物によっても埋めることの出来ない、空洞がある。それは、神によってのみ満たされる」と言ました。今日は、心の空洞を満たす神である「イエス・キリスト様」について聖書から導かれたいと思います。

主イエス様は「一人の盲人」をエルサレムの町中で見かけられた後、彼を「じーっとご覧になった」のでしょう。「イザヤ書」には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(同書43章4節[新改訳2017])とあるように、主イエス様は生まれつき目の見えない盲人をご覧になり、御心に留められたのでした。

一方、お弟子達は、主イエス様に「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と尋ねました(ヨハネ福音書9章2節)。このような考え方は、ユダヤの国(「ヨブ記」に記されたヨブの友人の言葉等)にも、日本(仏教思想の「因果応報」)にもありますが大きな見当違いです。

この時、主イエス様は「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」(9章3節)言われました。この御言葉で自分達の考えの間違いに気付き、盲目の人や障害を持つ人々で、「本当の生きる意味」を見い出して、生き生きと自分の人生を生きるようになられた方が多くおられます。

主イエス様は、更に、盲人であろうが健常者であろうが「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させる」(8章31節、32節)と言われます。私達も、主イエス様の御言葉に従い「まことの自由」を得たいものです。主イエス様は、暗闇の中で「心の目の視力」を失っている人々に働きかけて、すべての人々が「心の目」が開かれて、神様の御愛と真実を知るようにしてくださる「世の光」です(9章4、5節)。「目が開かれる」という奇跡は、「肉体の目」が開かれる奇跡に止まらず、実はもっと大切な「心の目」「信仰の目」をも開かせるものです。

主イエス様は、この時「唾(つばき)」をもって癒しの業を始められました(9章6節)。当時もまた一昔前の日本でも「つばき」は病気を癒す「治癒力があるもの」と信じられていたからです。主イエス様は勿論「全能(オールマイティー)」で何でもおできになりますが、「この盲人」が信仰を働かせなければ奇跡は起こりません。

故郷のナザレ村で、主イエス様は「奇跡を行ないたくても、行うことがお出来にならなかった」のでした(マルコ福音書6章5節)。その原因について、主イエス様はナザレ村の人々の「驚くばかりの不信仰」を指摘されました(6章6節)。ですからこの時も、生まれつきの盲人に「目が開かれる信仰」が与えられる様に、主は御言葉だけでなく、「昔から治癒力があると信じられていた」「唾(つばき)で土をつくって・・・」この盲人の目に塗られたのでした。それは、この盲人が少しでも癒しの信仰を持てるようにされた、主の「信仰の弱い人へのご配慮」です。

主イエス様は、この盲人に、必要で相応しい「ご配慮」をなさった上で、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」と御言葉をもって為すべきことを示されました。「そこで彼は行って洗った。」とあります(9章7節)。

実は、この盲人と主イエス様のおられた「神殿境内の近くの道」から「シロアムの池」までは、約1km程も離れていて、しかも「下り坂」で途中に「33段ほどの階段」もあるところを通らねばなりませんでした。しかし、この盲人は、主イエス様の言われる通りに、御言葉に聞き従って「シロアムの池」の方向に「信仰の一歩」を踏み出したのでした。途中、善意に溢れた人々が、不自由な彼の姿を見て、彼を手引きして「シロアムの池」まで導いてくれたかもしれません。主イエス様は御言葉をもって信仰者を導かれる時、必ずその導きに従う者に「必要な助け」「助ける人」「助けになるもの」を備えてくださいます。ですから、主が求めておられるのは「信仰の一歩」なのです。

この盲人も、主イエス様の言葉に従って「信仰の一歩」を踏み出して、歩き続けました。たった1km程の道程とはいえ、急な下り坂で階段もあり大変でした。しかし彼は、ともかくも「シロアムの池」に辿り着けたのでした。そして彼は目を洗いました。すると、主イエス様の御言葉の通り、目が「見えるようになって、帰って行った」のでした(9章7節)。

私達の信仰生涯には、「主の御言葉を信じて、主を信頼して静かに待つ」こともありますが、ある時は主の御言葉を信じて「信仰の一歩」を踏み出すことが必要です。その時、真の神様とそのご愛を体験して、御業にあずかる信仰が与えられるのです。

この出来事で、生まれながらの盲人であった人は回りの人々が見違える程に変わりました(9章8節、9節)。主イエス様の御言葉を信じて「一歩を踏み出し」、その御業に与かる時、人は変わります。その人の人生も変わります。人々は、その人に「なぜ、そうなったのか」という「理由」を尋ねました。生まれながらの盲目であった人は、自分の経験したことを淡々と述べました。その証しの言葉には「誰も冒すことの出来ない力」がありました。実際に彼の身の上に起った事だからです(9章10節~12節)。

その後、彼は主イエス様と再び出会って、「主よ、信じます」(ヨハネ福音書9章38節)と信仰を告白しました。彼は「肉体の目」を開らいて頂いただけでなく、もっと大切な「心の目」が開かれ、真の神様を信じで仰ぐ「信仰の目」が与えられたのでした。そして、「世の光」である神の独り子、救い主の神でいらっしゃる「主イエス・キリスト」様を知る者とされたのでした。

現代に生きる私達も、主イエス様の御言葉を信じて、それに従い、「信仰の一歩」を踏み出すなら、きっと神様の御業に与かり、神様を見る「心の目」「信仰の目」が開かれます。

                      2024年8月18日(日)伝道礼拝説教要約 竹内紹一郎