聖書箇所 ヨハネ福音書1章43節~51節➁
「いちじくの木の下で」
「イエスは答えて言われた、『ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た』。」
(ヨハネ福音書1章48節)
「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとく それを知られます。」
(詩篇139篇1節~4節)
主イエス様は、自分の方に歩いて来るナタナエルを見て、その「外見」「風采」ではなく「心を見られた」のでした(ヨハネ福音書1章47節)。有名な旧約聖書の記事にも「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル上16章7節)とあります。現代も、主なる神様は「私達の心」を見ておられます。その「心の動き」で神様は人を喜ばれ、また人を裁かれるのです。
ナタナエルの場合は、「その心には偽りがない」(1章47節)と主イエス様が言われました。その理由は、「静まりの場」を意味する「いちじくの木の下」で祈り、御言葉を黙想することを常としていたからでした。「いちじくの木の下」(1章48、50節)で、主なる神様と交わって祈りと御言葉の黙想に打ち込むナタナエルだからこそ、主イエス様が「その心には偽りがない」と褒められたのでした。
現代の「神の民」である私達も、「毎週の初め」の日曜日の午前中の数時間を「主に礼拝を捧げる」ために聖別するように、「毎日の始まり」の「朝の10分、20分間」を「いちじくの木の下」で過ごすなら、その営みの中で、主に喜ばれ祝福を豊かに受ける「偽りのない心」が造られて行きます。
「1章50節」には「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」とあり、「48節」にも「わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」と同じ言葉がありました。人間の肉眼では見えないことも、神様は、人が「見えないこと」「分からないこと」の全て知っておられるのです。これは、ナタナエルだけでなく、現代の私達の信仰生活の「現実」です。人には見えないものを見ておられるのが、私達が、今、礼拝しています主なる神様です。
その実例が、主イエス様が十字架に架かって私達の身代わりに死なれた「受難週の最初の日曜日」に、「軍馬」ではなく「ろばの子」に乗って、「平和の君」「平和の王」としてエルサレムの都に入城されるに際して、その「ろばの子」を用意する時、主イエス様はこう言われました。「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。そこで、「つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。」(ルカ福音書19章30節~32節)。
この記事は、主イエス様が数キロ先で数十分後に起こる出来事を予め見ておられ、お弟子たちに「ろばの子」の用事をさせられた記事です。その4日後の「受難週の木曜日」の出来事でも、主イエス様が何キロも離れた場所での「出来事」を予告して、「イエスは言われた、『市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。その人がはいる家までついて行って、その家の主人に言いなさい、「弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます」。すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい』弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。」(ルカ福音書22章10節~13節)とあります。これも、主イエス様が何キロも離れた場所での「出来事」を予告してお弟子に指示を与えておられたのでした。
「詩篇139篇」には「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。」(同篇139篇1節~4節)とあり、主なる神様は私達のことを全て知っておられて、更に、将来のことも全て分かっておられ、私達に正しい道を知らせてくださいます。
主イエス様はお弟子たちに、そのことをお言葉で伝えられましたが、現代は聖書の御言葉から私達に正しい道を知らせてくださいます。私達が信じ、今礼拝をささげています神様は、私達一人一人を見ておられ、更に「将来について」も知っておられて、私達にそのことを聖書の御言葉から知らせてくださいます(女性教職に与えられた御言葉の証)。
神様は、将来のことを聖書の御言葉から示して、「これは道だ、これに歩め」(イザヤ書30章21節)と導いて下さるのです。ですからナタナエルは、「いちじくの木の下」で聖書の御言葉を黙想していたのでした。私達もご愛の眼差しで私達を見守り、聖書の御言葉をもって、「これからの事」「隠された大切な事」を知らせて下さる主なる神様を信じて、あなたのお家のあなたのお部屋の「いちじくの木の下」で、御言葉から主の語り掛けを聞かせていただきましょう。またこの聖日礼拝で、主の語り掛けをしっかりと聞かせていただきましょう。主なる神様はその御言葉の通りに事を成就してくださいます。
2024年7月28日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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