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2024年7月21日聖日礼拝説教要

聖書箇所  マルコ福音書5章21節~34

「あなたの信仰があなたを救った」

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
(ヘブル人への手紙11章6節)

「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」
(ローマ書10章10節)


「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表わして、救われるのです。」
(ローマ書10章10節)

「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」
(マルコ福音書5章34節)


主イエス様は、「ゲラサ人の地」から「向こう岸」のカペナウムの町に帰って来られました(マルコ福音書5章21節)。主は、ここを「自分の町」(マタイ福音書9章1節)と呼び、「伝道の拠点の町」とされました。群衆はすぐに集まり、人だかりとなりました。そんな時、主はいつも「海べ(ガリラヤ湖畔)」に行かれました。多くの群衆が、主の御言葉を聞くだけでなく、お身体や、み衣にでも触れさせて頂き、病気を癒して頂くために押し迫りました。それで、主は小舟の上から何回も説教されました(3章9節、10節、4章1節)

その群衆の中にヤイロという人がいました(5章22節)。カペナウムのユダヤ教会堂の「会堂司」で、会堂とその運営を管理する人でした。彼は人々から尊敬されていた人物で、その地の「名士」でした。そのヤイロが、イエス様の足もとにひれ伏しました。ヤイロは会堂司としての「名誉」も「立場」や「地位」すらも危うくなることを覚悟して、主の「足もとにひれ伏した」のでした。それは、「幼い娘が死にかかっています」(5章23節)とありますように、娘の病が薬石効なく危篤状態が続いたからです。ヤイロは万策尽きて「絶望」し、後は病気を癒すという「田舎教師・イエス様」に期待するしかありませんでした。主イエス様は、その「一途な信仰」を喜ばれ、娘の病を癒すために彼の家に向かわれました(5章24節)

「ヘブル人への手紙」には、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」(ヘブル人への手紙11章6節)とあります。現代に生きる私達も、主に「一途に期待する信仰者」でありたいものです。一切の事が駄目になっても、主イエス様には「答えがある」「希望がある」と信じで祈りましょう。主は、あなたのその「一途な信仰」に答えられるのです。

さて、この時ヤイロと同じく真実に主イエス様に期待していた一人の女性がいました。彼女は「血の止まらない」婦人病を患って12年間苦しみ続けていました。また「宗教的な汚れ」を持つ者として当時の社会から完全に締め出されていました(5章25節、レビ記15章後半)。

その上、2千年前の当時の医療では「婦人病」は良くならず、医者から医者を渡り歩いて治療しても「さんざん苦しめられ・・・ますます悪くなる一方」で、全財産を使い果たしても何の役にも立ちませんでした(マルコ福音書5章26節)

 しかし、彼女は「イエスという方が病気を治される」という「噂」を聞いたのでしょう。そして彼女は、主のみ衣にでも触れれば、必ず、癒していただけると思ったのでした。それは「最後の手段」でした。、彼女は群衆の中に紛れ込み、主の後ろからみ衣に触れました(5章27節・28節)。

 信仰の世界では、「会堂司ヤイロ」もそうですが、「絶望したから、絶対に信頼する」と言われます。この世では、「絶望」と「信頼」というのは全く「別物」と考えられ易いのですが、「信仰の世界」では強い「絆(きずな)」で繋(つな)がっています。「自分が、まだ何か出来る」と思っているうちは、本当は「信仰」が働きません。

旧約聖書の「創世記27章~32章」には、父と兄を騙して「長子の権利と祝福」を奪った弟ヤコブの姿が記されています。そのヤコブが20年後、兄のエサウと再会しなければならなくなった時、「殺されるかもしれない」と思い、恐怖に押しつぶされそうになり、神様と相撲を取るように格闘しながら祈りました。その時、神様はヤコブの「もものつがい(腿の関節、最新訳「股関節」)」を打たれ(創世記32章25節)、「足を引きずって歩く」ことしか出来なくなりました。それは、兄のエサウや義理の父のラバンから「逃げて、逃げて、逃げまくる人生を送ってきたヤコブ」が、もう恐れている兄の前から「自分の力で、走って逃げる」ことが出来なくなり、「自分の力が全く頼れない、自分に絶望した瞬間」でした。その時からヤコブは、神様が「祝福してくださるまでは離しません」と神様に喰らい付いてお祈りしました。神様は、ヤコブが「自分の力に絶望」し、神様にのみ期待した「絶対的な信頼」の祈りに答えて祝福してくださり、兄のエサウを恐れることなく「素晴らしい和解の時」を持つことが出来ました(33章4節)

 「婦人病を患う女性」も、完全に「絶望」して、後は主の「み衣にでも触れれば」と「絶対的に信頼」した時、彼女は「病気がなおったことを、その身に感じた」のでした(マルコ福音書5章29節)。

一方、主イエス様は「()自分の内から力が出て行った」と感じられ、「わたしの着物にさわったのはだれか」と彼女を探されました (5章30節~32節)。ここにも「信仰の世界」の「大切な原則」があります。

 婦人病を癒された女性は、「恐れおののきながら進み出て・・・すべてありのままを申し上げ」ました(5章33節)。この時、主は「御自分の御力による病気の癒し」を公(おおやけ)にするように迫られたのです。それは、この婦人病を癒された女性を困らせられたのではなく、「一途な信仰」とその結果としての「病気の完全な癒し」を人々の前に告白し、彼女の信仰が消えて無くなることなく「確かな永続する信仰」となって、更に「主を崇める信仰」に成長するためです。しかし、彼女が「完全な癒しの恵み」を彼女の「心の中にだけ」留めて、主の前に出なければ、その「信仰」は「あっという間」に消えてしまいます。

 「ローマ人への手紙10章10節」に、 「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」、別の翻訳聖書では「口で公に言い表わして、救われる」(同書10章10節[新共同訳])とあります。

 主イエス様は、「主の癒しの恵み」を受けたこの女性が、大切な「信仰」を失わないで「公の告白」が出来るように、「何としても、探し出そう」と「見回しておられた」(5章32節)のでした。彼女の人間的な思い(人情)としては、誰にも気づかれずに病が癒された「御利益」だけを心の中で感謝して、サーと姿を消したかったでしょう。でも、それは、彼女の祝福にはなりません。

自分の「一途な信仰」に答えてくださった神様に向かって感謝し、その癒しの御力を人々の前で告白した時、主は「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい。」(5章34節)と宣言され、彼女に「救い」と「安心」と「健やかさ」を約束されました。

            2024年7月21日 伝道礼拝説教要旨 竹内紹一郎