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2024年7月14日聖日礼拝説教要
イエスの山上の垂訓シリーズ(2)

        「こころの清い人たちは」


「心の清い人たちはさいわいである。彼らは神を見るであろう」
(マタイ福音書5章8節)

 

 よく「神なんかあるものか、ほんとぅにいるならここへ出してみろ。そうしたら信じてやる」と、傲慢なことを言う人がありますが、しかし詩篇14篇には「愚か者は、心のうちに神はないと言う」とあります。この愚か者とは罪人のことです。こころが罪に汚れているから神を信じることができないのです。また、神を見ることができないのです。それは、神は聖なるお方だからです。ヘブル書12章14節には「潔くなければ、だれでも神をみることができない」とあります。

 キリスト教の信仰の特徴は「潔め」「聖なる生活」です。これがキリスト教が倫理宗教と言われるゆえんです。また、この潔い生活を送っているから人々から尊敬され、信頼されているのです。

 では、何故キリスト教では「潔め」が強調されるのでしょうか。それは神の御心だからです。ペテロ第一書1章15節には「あなたがたを召してくださった聖なるかたにならって、あなたがた自身も聖なる者となりなさい。聖書にわたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである、と書いてある」とあります。この聖書の言葉とはレビ記20章7,8節のことです。

 今日は世俗に汚された不道徳な時代です。まるで神に滅ぼされたソドムのように思われます。そして、この不道徳がともすれば教会に中にまで入り込み、よほど身を律していなければ堕落してしまいます。こんなときこそクリスチャンの清めが大切なのです。そしてこれが天国に入るパスポートなのです。

 では、どうすれば清くなれるのでしょうか。出エジプト記29章37節に「すべて壇に触れる者は聖となる」とあります。文語訳聖書では「壇(祭壇)に近づく者はみな清くなる」とあります。これは神の臨在に近づくこと、つまり礼拝を守ることです。つまり神の臨在に近づくときに聖霊が清めてくださるのです。

 教会は製紙工場のようなところです。集められた古紙が製紙工場の裏から運び込まれますが、いろいろな工程を経て製紙され、工場の表から出てくるときには綺麗な再生紙に生まれ変わっているのです。このように清められた心の状態に変えられるのが礼拝です。

 皆様も一週間、世俗のなかで悪戦苦闘して、肉体だけでなく魂もくたくたに疲れ果てて教会に帰ってきます。そして臨在に近づき礼拝を守っている間に魂は清められ、リフレッユされて、再び一週間の戦いに出発していくのです。

 神戸は造船の町でした。この造船所は新しい船舶を建造するだけでなく、長い遠洋航海をしてきた船をドックに入れて、船底についた貝殻を取る仕事もするのです。そうすると船底の抵抗が少なくなり、スムーズに航行することができるのです。ところが貝殻をつけたままでは、それが水の抵抗になって、同じスピードで航行するためには余計な燃料がいるのです。

 わたしたちも一週間、この世俗の中に生きていると、魂に様々な罪や汚れの貝殻がついて、苦労しなければなりません。そこで、恵まれた生活をするためには臨在に近づいて聖霊によって清められ、魂の貝殻を取り除いていただくことが肝要です。皆さん、今日もたくさんの貝殻をつけてこられたと思いますが、聖霊によってすべての貝殻を取り除いて、身軽になってお帰りください。

 次に、ヨハネ福音書15章3節に「あなたがたは、わたしが語った言葉によって、すでにきよくされている」とあります。つまり、み言葉によって魂が清められるのです。

 詩篇119篇9節に「若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉に従ってそれを守るほかはありません」とあります。清い生活を送るためにも日々み言葉に親しみ、清められた生活を送ってください。

 わたしたちは毎日欠かさずに食事をしますが、それは肉体を健康に保つためです。それと同様に、魂が健全であるためには霊的糧が必要です。肉体の糧を欠かしても力がはいらなくなりますが、霊的糧を欠かすと魂がふらふらして弱ってしまいます。そしてサタンの誘惑に抗することができなくなります。

 最後に、今から五十年ほど前にエイズの問題が起こり、日本中がパニックになり、心に覚えがある人は保健所に殺到したといわれています。そんなときテレビでエイズについて討論会がありました。数人の人がいろいろな意見を話していましたが、その中のひとりが「これからはクリスチャンのような生きかたをしなければなりませんね」と発言しているのを聞いておどろきました。
                                                   坊向輝國