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2024年7月7日聖日礼拝説教要

聖書箇所 ヨハネ福音書1章43節~51節 


            「主は心を見る御方」

「神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、そのことの証人です。」
(使徒行伝5章32節後半)

「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」   
(サムエル上16章7節)

「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た。」
(ヨハネ福音書1章48節後半)

「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」
(箴言4章23節)

 

 主イエス様は、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられた「ヨルダン川の向こう側(東側)のベタニヤ」におられましたが、その翌日にガリラヤに行こうとされました(ヨハネ福音書1章43節前半)。その道中に、後に「12弟子の一人となるピリポ」に出会われ、「わたしに従ってきなさい」と言われました(1章43節後半)。そして、ピリポは、すぐに主イエス様に従ったと思われます(1章45節)。また彼は、「アンデレとペテロとの町ベツサイダの人」(1章44節)とあります。多分ピリポは、アンデレとペテロの知り合いだったのでしょう。

主イエス様の「わたしに従ってきなさい」と言う御声は、ヨハネ福音書にも他の福音書にも何回も記されている言葉です。この「ヨハネ福音書」では、最初の「1章43節」に「わたしに従ってきなさい」とあり、最後の「21章19節と22節」にも「わたしに従ってきなさい」「あなたは、わたしに従ってきなさい」とあります。つまり、「ヨハネ福音書」は、「従う」ことに始まり「従う」ことで終って完結しています。

他にも使徒パウロが、「キリスト教とは何か」、私達の信じている「福音とは何か」について体系的に解き明かす代表作の「ローマ人への手紙」にも、最初の「第1章5節」に「信じて、従う」という意味の「信仰の従順」から始まり、「16章26節」に「信仰の従順」という言葉で終っています。

 ですから、私達の「キリスト教信仰」は、何をおいても「信じて、お従いする」「信じているから、お従いする」「信じているから、お従い出来る」信仰です。私達の「活水の群」は、特に「お従いの群」と言われる程です。「お従いする」のは「信じていることの証、印」です。更に、「使徒行伝5章」には、有名な御言葉として「神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である(協会共同訳聖書:神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、そのことの証人です。)」とあります。「信じて、主にお従いする」時、「聖霊が与えられる」のです。

私達の信仰生活にとって最も必要なのは「聖霊のお働き」です。たとえば、礼拝時に「主の臨在」を覚えるのも、御言葉を理解して素直に受け取られるのも、全て「聖霊のお働き」です。「お祈り」する時も「聖霊によって祈り」(ユダ書20節)とあります。もし「聖霊」がおられないなら、私達の「祈り」は「独り言」で神様に届きません。虚しい自己満足になります。一方、「あなたは、わたしに従ってきなさい」と心に示される時、「はい、あなたにお従いします」と応じるなら、そこから全ての良きもの、そして最も大切な「聖霊」が備えられるのです。

主イエス様のお弟子として5番目に導かれたのは「ナタナエル」です。聖書学者によりますと、共観福音書の「バルトロマイ」と同一人物だと考えられています。彼は「ガリラヤのカナのナタナエル」(ヨハネ福音書21章2節)とあり、出身地は「ガリラヤのカナ村」で、主イエス様が「最初の奇跡」を行われた結婚式のあった「カナ村」でした(2章1節~11節)。

「カナ村」は、主イエス様が育ちなさった無名の寒村「ナザレ村」の近くでしたので、ピリポが「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」(1章45節)と言った時、ナタナエルは「ナザレから、なんのよいものが出ようか」とピリポの言葉に躓きました。「カナ村」の出身のナタナエルは、近くにある「ナザレ村」をよく知っていて、寒村のナザレから「メシヤ(キリスト)」が出るとはとても考えられなったのです。結局、「百聞は一見に如かず」で「きて見なさい」と、ピリポは確信に満ちた口調でナタナエルに言いました(1章46節)。

主イエス様は、御自分の方に歩いて来るナタナエルを見て、その外見(風采)ではなく「心」を見られ、「その心には偽りがない」と言われました(1章47節)。旧約時代においても、主なる神様が、イスラエルの王様を選び出す預言者サムエルに対して「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16章7節)とおっしゃたことが記されています。

 現代も、主なる神様は「私達の心」を見ておられます。神様は、「心の動き」で人を喜ばれ、また人を裁かれるのです。ですから、心で「悪い事」を考えても行動に移してないから大丈夫と思われることも、神様の御目には「思いも行動も同じ」です。その思いを「方向転換」して、主イエス様の血潮の赦しを頂きましょう。「悪い思い」を放っておくと「行動」になり、最後は、「破滅」に至ります。

一方、ナタナエルの場合は、主イエス様が「その心には偽りがない」と褒められたのでした。その理由は、彼が「いちじくの木の下」にいたからです(1章48節)。「いちじくの木の下」とは敬虔で主なる神様を畏れるユダヤ人が、祈って御言葉を黙想することを常とした場所です。主なる神様と交わって、祈りと御言葉の黙想に打ち込むナタナエルこそ、主イエス様が「その心には偽りがない」「ほんとうの神の民、イスラエル人である」と褒められたのでした。

 現代の「神の民」である私達は、毎日忙しく動き回っていますが、皆さんが「毎週の初め」の日曜日の午前中の数時間を「主に礼拝を捧げる」ために聖別されるように、「毎日の始まり」の「朝の10分、20分間」を「いちじくの木の下」で過ごす「デボーション(静まりの時)」を持つ事は大切です。その営みの中で、主に喜ばれ祝福を豊かに受ける「偽りのない心」が造られて行きます。

主イエス様に「いちじくの木の下」で主なる神様と交わって、祈りと御言葉の黙想に打ち込む姿を見られ、「その心には偽りがない」と褒められたナタナエルは、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(1章49節)と信仰告白しました。

私達の神様は「心を見る御方」です。その心の思いによって祝福して下さり、また祝福を止められる御方です。旧約聖書の「箴言」に「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」(同書4章23節)とあります。私達が恵まれ祝福される「土台(基礎)」は「神様が見ておられる心の動き」にあるのです。その「心」を、「いちじくの木の下(毎朝のデボーション静まりの時)」で整えて頂きましょう。そこから、「命の泉が流れ出て」、主の豊かな祝福に与れるのです。

              2024年7月7日()  聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎