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2024年6月30日聖日礼拝説教要

聖書箇所 ヨハネ福音書1章35節~42節      


                「アンデレ伝道」

「彼(アンデレ)はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、『わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った』。そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、『あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする』。」       
(ヨハネ福音書1章41、42節) 


「雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく、必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ、種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし、私が託したことを成し遂げる。」
(イザヤ書55章10節、11節
[協会共同訳]

 

洗礼者ヨハネは、「ヨルダンの向こうのベタニヤ」でパプテスマを授けていて、「あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。」(ヨハネ福音書1章26節)と語りましたが、「その翌日」(1章29節)には「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と語り、更に「その翌日」(1章35節)も、再び主イエス様が歩いておられるのに目を留めて「見よ、神の小羊」と言ったと記されています。このように、聖書の中で何回も繰り返されている言葉は「大切で重要な言葉」です。

今の時代は、「十字架を語らないキリスト教」が存在します。でも大事なのは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊(十字架で尊い血潮を流された神の小羊である主イエス様を見なさい)」という宣言です。私達の教会では、その事を別の「御宝血を崇めさせていただきます」という表現で尊んでいます。「十字架を語り」「御宝血を尊び、崇める教会」そこ「真の教会」です。

この大切な「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」というメッセージを洗礼者ヨハネから聞いた二人の弟子たちは、主イエス様に従いました。彼ら二人は「洗礼者ヨハネの弟子」でした。多分、聖霊の力強いお働きで自分の罪深さを知らされ、洗礼者ヨハネによって「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」(マルコ福音書1章4節)を授けて頂き、罪を完全に赦されて、身も心も一切清くされ、感謝にあふれ、喜んで洗礼者ヨハネのお弟子となったのでしょう。

そのような自分の弟子が自分を離れていくことについて、洗礼者ヨハネは「何と言うことだ!」と憤り憂うのではなく、自分の使命が全うされている事を喜んだと思います。何故なら、彼は、主イエス様がお出でになるための「露払い」「先立つ者」として「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」(ヨハネ福音1章23節)の役割に徹していたからです。

弟子たち「ふたりのうちひとり」はシモン・ペテロの兄弟のアンデレです(1章40節)。ペテロは主イエス様の一番(筆頭)弟子となり、一度は「逮捕されて十字架に架かられる直前の主イエス様」を3度も否んで、自分の愚かさや弱さを知って、男泣きに激しく泣いたことがありましたが(マタイ福音書26章75節他)、後に立ち直って初代キリスト教会の代表者となって活躍した人物です(使徒2章14節他)。最期は、主イエス様と同じでは申し訳ないと「逆さ十字架」に架けられて「主イエス様の教え」を貫いて殉教したと言われています。そのペテロの兄弟()がアンデレでした。もう一人の弟子は、このヨハネ福音書には名前が一度も出て来ませんので、この福音書の著者のヨハネ考えられています。

 彼ら(アンデレとヨハネ)は、洗礼者のヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と呼ぶ、主イエス様に付いて行きました(ヨハネ福音書1章37節)。その二人に対して、主イエス様は「きてごらんなさい」と言われたので、一晩、主イエス様と一緒に過ごして語り合い(1章38節、39節)、洗礼者ヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」と言った意味が分かったのでしょう(1章40節後半)。

 話は少し変わりますが、今年の8月6日()~8日()に開催されます「御殿場研修会」の参加申込の受付が始まります。この御殿場研修会で、同じ宿舎で同じ釜の飯を食べる時、本当の交わりが与えられて「生涯の信仰の友」が与えられ、また「生涯の伴侶」を得た方もあり、更に主イエス様と共に歩む「献身の決心」をされた方もあります。御殿場研修会には不思議な恵みがあります。

アンデレもヨハネも、主イエス様と宿泊した一晩で、主イエス様を「救い主(キリスト)」と信じました。そのアンデレの信仰が本物であることは、兄にその信仰を告白していることから分かります(1章41節)。更に、アナデレは、兄のシモンを主イエス様のもとに連れて行きました(1章42節前半)。 

このアンデレの姿は、私達に大切な事を教えています。それは、教会が取り組んでいます「伝道活動の基本形」だからです。人々に自分自身が伝道するのでなはなく、その人々を主イエス様のところに連れて来る「アンデレの姿は伝道のお手本」と言われます。山手教会でも、毎月第3日曜日に「伝道礼拝・愛餐会」があります。アンデレのように、まず人々を主イエス様のおられる教会にお連れしていただければ良いのです。「伝道のお手本といわれるアンデレ伝道」に取り組んで参りましょう。

最後に、主イエス様はアンデレの兄弟の「ヨハネの子シモン」に目を留めて、もう一つの名前の「ケパ(当時の日常語のアラム語で「岩」と言う意味ですが、ギリシャ語に訳すと「ペテロ」)と呼ばれる「新しい名前」を与えられました。聖書に出てくる人物で、新しい名前を与えられている人は何人もいます。教会迫害者のサウロは、後に「パウロ(「小さい」という意味)」という新しい名前が与えられたのはご存知の方も多いと思います。

ペテロの場合は、純情で熱心だけれども、挫折してしまう弱さを持ち合わせた人物ですが、主イエス様が、「将来、岩のような堅固な意思を持つ人物に育つ」と見られて、「岩」と言う意味の「ケパ(ギリシャ語で「ペテロ」)」と呼ばれました(1章42節後半)。主イエス様はシモンに対して、その時はそうではないが将来はそのように育っていく「将来の姿」を示すことが必要だったのでしょう。

 主イエス様の語られる言葉(御言葉)は、必ず成就します。「イザヤ書55章」には「雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく、必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ、種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし、私が託したことを成し遂げる。」(同書55章10節、11節[協会共同訳])とあります。主イエス様が、アンデレの兄弟のペテロに付けられた「岩」という意味の「ケパ(ペテロ)」と言う名前は、その通りに彼の生涯で成就して、初代キリスト教会の代表者として大活躍しました。

 現代も、主の御言葉は成就します。私たちは、その事を期待て、主の御業の顕れる時を待ちましょう。

         2024年6月30日() 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎