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2024年6月23日聖日礼拝説教要
聖書箇所  ヨハネ福音書1章24節~34節   

    「汝らの中(うち)に汝らの知らぬもの一人(ひとり)たてり」


「事を隠すのは神の誉であり、事を窮めるのは王の誉である。」
(箴言25章2節)

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。」
(申命記29章29節)

「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」
(ヨハネ福音書13章7節)

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
(ヨハネ福音書1章29節)

汝らの中(うち)に汝らの知らぬもの一人(ひとり)たてり」
(ヨハネ福音書1章26節
[文語訳]

「あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。」
(同上、口語訳)


洗礼者ヨハネの許に、何百人、何千人、何万人もの多くの人々が集まってバプテスマを受けてるので、エルサレムの都の最高議会(サンヘドリン)から遣わされてきた「パリサイ人」は、「なぜバプテスマを授けるのですか?」と尋ね、問い詰めるのは当然でした(ヨハネ福音書1書24、25節)

 そこで語られた洗礼者ヨハネの答えは、遣わされてきたパリサイ人には「意味不明」のものでした(1章26、27節)。そして、「これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであった」(ヨハネ福音書1章28節)の一文をもって、その日が終わったことが記されています。「遣わされてきたパリサイ人」は、「何故、洗礼者ヨハネがバプテスマを授けているのか」分からず仕舞いで、とぼとぼとエルサレムへ帰っていったのでしょう。

 「神様は、大事だけれども今は隠さなければならい事を隠される」です。何故なら「エルサレムの最高議会から遣わされてきたパリサイ人」達は、この後、主イエス様を訴え、更に3年程後には主を十字架に架けて殺してしまう人々でした。まだ、「その時」ではなかったのでした。

 旧約聖書には、「事を隠すのは神の誉であり、事を窮めるのは王の誉である」(箴言25章2節)、「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである」(申命記29章29節)とあります。私達の信じる神様は「事を隠される神様」であり、時至って「隠したこと」を明らかにされ、「あとでわかるようになる(後、これを知るべし)」(ヨハネ福音書13章7節)とおっしゃる御方です。

では、「エルサレムの最高議会から遣わされてきたパリサイ人」には隠され、後に明らかになった事柄は何だったのでしょうか。それは、洗礼者ヨハネが「その翌日」に明らかにしたことで、主イエス様を「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったことです。これは、ヨハネの語った「最も重要なメッセージ」で、「苦難のしもべ」を描いた「イザヤ53章」にありますように、多くの者の罪を背負ってほふり場に引かれて行く「小羊」のことを言っています(1章29節)

主イエス様は、私たち人間の犯してきた全ての罪を背負い、その罰を受ける「犠牲の小羊」として十字架上にほふられ、イスラエル人のみならず全世界の主イエス様を信じる人々の罪とその罰を取り除かれたのでした。この大切なメッセージは、何もない荒野で祈りの生涯に徹した洗礼者ヨハネが、聖霊のお働きに豊かにあずかった故に導かれたのでしょう。彼は、主イエス様を見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と大胆に預言できたのでした。

更に、彼は「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。」(ヨハネ福音書1章30節)と言いました。その内容を分かりやすく翻訳してます「現代訳聖書」では、「『もうすぐ活躍される方は、私よりはるかに偉大な方です。その方こそ永遠の昔からおられる神様だからです』と私が言ったのは、この方のことです」(ヨハネ福音書1章30節[現代訳聖書])と記されています。

 このようなことが、何故ハッキリと洗礼者ヨハネに分かったか、「その訳」が続く「1章31節~35節」に記されています。洗礼者ヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった」(1章31、33節)と2回も言っています。主にバプテスマを授けた時、御霊なる「聖霊が主イエス様の上に下る」ことを目撃するまでは、ヨハネもイエスが「神の小羊」また「神の子」「神の独り子」であることを知らなかったのでした。

 しかし、多くの人々が続々と「罪と汚れの数々を悔い改めて」バプテスマを受け、その中の一人に主イエス様がおられたのでした。その主イエス様に「バプテスマを受けると同時に、聖霊が降られた」ので、ヨハネはこの方こそ「神の子(独り子)」であり「世の罪を取り除く神の小羊」と分かって、大胆に証をしたのでした(1章33~34節)

これが、ヨハネが「人々にバプテスマを授けていた、もう一つの理由」でした。この事は「マタイ福音書」「マルコ福音書」「ルカ福音書」の各福音書にはハッキリ記されていませんが、大切な事柄です。柘植先生の神学校時代のクラスメイトで、共によく祈られた小島伊助先生は、「洗礼者ヨハネについての(ヨハネ福音書)のこの御言葉は、(マタイ、マルコ、ルカ福音書の)共観福音書と事実は一つであるが、ヨハネ福音書の)記事は、舞台の裏話で、しかも尊い。本(ヨハネ)福音書によって、共観福音書は補われて全うされている」(小島伊助全集6、341頁)と言われます。

最後に、大切な「1章26節」の「あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる」との御言葉について考えます。文語訳の御言葉は汝らの中(うち)に汝らの知らぬもの一人(ひとり)たてり」です。この「一人立っておられる御方」は主イエス・キリスト様です。聖書の記事では、「ヨルダン川の向こうのベタニヤ」で、主イエス様は「一人たって」おられたのですが、今、私達が集って礼拝を捧げているこの山手教会の礼拝堂にも、汝らの中(うち)に汝らの知らぬもの一人(ひとり)たてり」「あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる」のです。

 「教会の頭(かしら)」でいらっしゃる御方(エペソ書5章23節、コロサイ書1章18節)は、十字架で事切れ、全ての人の罪・咎・汚れの一切を赦し・清める尊い血潮を流し、更に私達の代わりに「陰府」にまで下って、三日目に甦られた主イエス様です。主イエス様は、今日も「山手教会の頭」として、この礼拝堂に「一人(ひとり)立」っておられるのです。この事実こそは、私達にとって「最も大切なこと」ではないでしょうか。この御方を信仰の目を持って崇めて、心からの礼拝を捧げましょう。そして、いつも共にいて下さる事を信じて新しい一週間を始めましょう。

          2024年6月23日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎