本文へスキップ

message

2024年6月16日聖日礼拝説教要

聖書箇所 ルカ福音書19章1節~10節  

   
   「神様の選びと救いの恵み」

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さる・・・
(ヤコブ書4章8節前半)

その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
(エレミヤ書29章12節~14節前半)

「人の子(イエス様)がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」
(ルカ福音書19章10節)


 取税人のかしらザアカイ(ルカ福音書19章2節、「きよし」さんの意味)は、主イエス様によって「罪と汚れに塗(まみ)れた一人ぼっちの孤独な生涯」から救われ、後に地中海沿岸のカイザリヤの港町のキリスト教会の「監督(現代の「牧師」)」になった人物です。

「エリコ」(19章1節)は新約・旧約聖書にも何回も出てくる「なつめやしの町」と呼ばれる緑豊かオアシスの町です。多くの果物や農産物が採れ「エルサレムの食糧庫」とまで言われるほどです。また、多くの人々と色々の農産物が集まり、運ばれて行く町として繁栄しましたので、税金を取り立てる「税関」の役所がありました。その税関の役所を取り仕切る人物が「取税人のかしら」のザアカイでした。当時の取税人は不正を行うのが当たり前で、ローマの権力を笠に着て法外な手数料を上乗せして、貧しい人々からも血も涙もない税の取り立てを行い、巨万の富を築いたので「金持ち」(19章2節の最後)と記されています。

 ユダヤ人にとっては、ザアカイはローマ帝国の手先となって、罪に汚れた「売国奴」として、ローマのために税金を取り立て、不正と搾取に手を染めて「巨万の財」を築いた「大悪党」と思われていましたので、ザアカイを相手にする者は誰一人おりません。お金をどれほど持っていて羽振りが良くても、世間の人々の「敵意」と「軽蔑」の眼差しに囲まれて「孤独」そのものでした。

 ザアカイは主イエス様に会ったことがありませんでした。風の噂か何かで「ガリラヤ地方」には不思議な力を持っておられる「ビラ(聖書の教師)のイエス」という方がおられ、しかも「取税人、罪人の仲間」(7章34節)になっている人がいると聞いていたのでしょう。

またザアカイと同業者の取税人だった「マタイ」が、主イエス様のお弟子の一人に加わっている噂話に聞いて、孤独で誰にも相手にされないザアカイの関心は、いやが上にも高鳴ったに違いありません。その上エリコ町の人々は、主イエス様のことを「ダビデの子(「救い主、キリスト」)」かもしれないと考えていましたので(18章38節)、ザアカイはひとかたならない興味をもったのも理解できます。

しかし、彼を取り囲む現実は厳しいものでした。お金はあっても背の低いザアカイは、いつも人々に馬鹿にされていたのでしょう。ザアカイがイエス様を見ようと人々の前に出ようとした時、人々はこの時とばかり、彼の取り立てる「重税」と「不正」で苦しむ日頃の恨みを晴らすために、ザアカイの行く手を阻み、前に出られないように遮ったのでした(19章3節)。

 しかし、ザアカイが偉いところは、この時「めげません」でした。「絶対にあきらめません」でした。「何としても、このイエスという人に会いたい。何としても会いたい」と思い、ザアカイは「走って」、先回りし、背丈の低さをカバーしてよく見えるようにと、いちじく桑の木の上に登ったのでした。このザアカイの「一度や二度、いえ、それ以上うまく行かなくても、決してめげず諦めないで主イエス様に近づく姿」は誠に尊いものです。このような、健気(けなげ)で一途な求道の姿は聖書には何度も記されています。そして、そのような人々は主なる神様を見い出し、助けられ、祝福されています(ヤコブ書4章8節前半、エレミヤ書29章12節~14節前半)。

ところが、ザアカイが一生懸命主イエス様に近づいたというよりも、実は、主イエス様の方がザアカイに近づいて来られたということが分かります(19章5節前半)。ザアカイと主イエス様は面識がありませんでしたが、主イエス様が「ザアカイ」という彼の名前を予め知っておられたのでした。更にザアカイを驚かせたのは、主イエス様の「きょうは、あなたの家に泊まることにしている」(19章5節後半)との言葉です。主イエス様は、彼の名前を知っておられただけでなく、ザアカイの家に泊まることを予め決めておられたのでした。神様は事が起こる前から、予め決めておられる御方です(ルカ福音19章28節~34節参照)。

出会う前から、主イエス様に愛されて選ばれていたザアカイは、その「愛と選び」に即座に応えています。このことは、ザアカイが主イエス様を見ようとして人々に遮られながらも、めげないで木の上から主イエス様を見て近づいたこと以上に大切です。神様のお声にすぐ応えることが大切です(19章6節)

 ところが、世間ではこの事を訝(いぶか)り怪(あやし)み非難し、「あんな罪深いザアカイの家に宿を取られるとは、やはり主イエス様は、噂通り罪深く汚れ果てた『取税人や罪人の仲間だ』(ルカ福音書7章34節)」と思ったことでしょう。この世の人々が、聖旨の分らないのは残念なことです(19章7節)

でも、ザアカイは主イエス様の「愛と選び」に感動しました。罪深く、愚かで、誰一人相手にしてくれない「取税人のかしら」の自分を愛し、選んで宿を求めて泊まってくださる主イエス様と知って、心を洗われて、素直な心にされて、今までの「罪を悔い改めた」のでした。人々を泣かせ、自分の腹を肥し、人の涙を何とも思わない残忍な自分、恐ろしい自分を恥じて悔い、「これはいかん、正しい道を歩まなければ・・・」と悔い改めたのでしょう(19章8節)

ザアカイは、今まで貧しい人々のことなど気にかかるどころか、格好のカモにして血も涙もない税の取り立てをして来たのでした。しかし、その迷惑をかけた貧しい人々のために、彼が貯えた「膨大な財産の半分を施す」というのです。更に「不正をして得たお金」「だまし取ったお金」を4倍にして返すと宣言しました(19章8節)。

この時、ザアカイが一人で心から罪を悔い改めたのですが、主イエス様は「ザアカイだけの救い」ではなく、「きょう、救いがこの家にきた」と「彼の家族全員の救い」を宣言されたのでした(19章9節、使徒行伝16章31節)。

最後に御自分のことを「人の子」と呼ばれた主イエス様は、「失われた者(神様に愛され、選ばれていながら、その事を知らずに罪と汚れの中で他人を傷つけ、自分をも傷つけ神様を悲しませている人々)」を尋ね出して、「救う(真の神である御自分に立ち帰らせる)ため」に来たと宣言されました。

 主イエス様は、あなたが「心の戸を開く」のを待っておられます。「今日」そして「今」、私達はザアカイのように今までの不信仰と罪を悔い改めて、主イエス様に心の戸を開き主に入って頂き、宿って頂きましょう。そここら祝福が始まります。

                2024年6月16日()伝道礼拝説教要旨 竹内紹一郎