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2024年5月26日聖日礼拝説教要

聖書箇所 ヨハネ福音書8章1節~11節

   「わたしもあなたを罰しない。」

「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。・・・イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』。」
(ヨハネ福音書8章7節~11節)

「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」
(Ⅰヨハネ書1章7節)


主イエス様は、「讃美歌121番」に「馬槽の中に産声あげ、木工の家に人となりて、貧しき憂い生くる悩み、つぶさになめしこの人を見よ・・・」と歌われていますように、問題の多いこの世の「ど真ん中」を生きる御生涯を送られました。この「ヨハネ福音書8章」では、「世の汚れと問題」や「人々の敵意と殺意」に晒された主イエス様が、この世に打ち勝たれたことについて記されています(ヨハネ福音書16章31節)。

主イエスは、エルサレムの都の東側の「オリブ山」へ行って、一夜を過された後、朝早く「宮(エルサレム神殿)」に入られました。そこには、朝早くから祈りを捧げて一日を始める「敬虔な人々」がいました(8章1,2節)。一日の初めに「神様、おはようございます」とお祈りし、その日の「お守りと祝福」をお祈りすることは、何よりの幸いでなないかと思います。世の中にも「朝を制する者は人生を制する」とありますが(「子育て真っ最中のまま」「Twitter共同創業者、元CEOの『ジャック・ドーシー』」などの言葉)、私達の信仰生涯でも「朝を制する者は、信仰生涯を制する」のです。

2千年前の朝早くに「エルサレム神殿」に集った人々に、主イエス様が近づき腰を下ろして大切な教えをされたように、現代の私達も30分早く起きて、だれにも何物にも邪魔されず、スマホもいじらずに「神様、おはようございます」と言うなら、主イエス様が共にいてくださいます。

その「大事な朝の一時」に事件が起こりました。敬虔な人々が集まって主イエス様から御心を伺う最も聖なる時間の「最中」に、「律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた」(8章3節)のです。しかし、この女性は「現行犯」で捕まったのに、相手の男性はいません。それは「イエスをためして、訴える口実を得るため」(8章6節前半)でした。女性はそのための「格好の材料」「わな」として使われたのでした。

主イエス様は、この世の人々を愛して「永遠の救い」に導き「天の御国を継がせる」ために来られたのに、「律法学者たちやパリサイ人たち」を始め世の多くの人は、その「主イエス様の愛と顧み」に対して「無関心」「反発」「敵意」、更には「殺意」まで抱きました。それは、現代も同じです。

律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕えられた一人の女性を連れて来て、主イエス様と早朝に集まっていた「敬虔な人々」の間に立たせて、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」(8章4,5節)と問いただしました。

もし主イエス様が「この女を石打ちにしてはならない」と言われれば、当時の「ユダヤ人の法律」であります「モーセの律法」に反するので、主イエス様は「モーセの律法を守らない人物」として「告発」で出来ます。一方、主イエス様が「この女を石打ちにして殺せ」と答えられたなら、いつも「世の罪人」に対しての愛と憐れみもつように教えて来られた主イエス様の「愛の憐れみの教え」に矛盾するだけでなく、当時のユダヤの国を支配して「人を死刑にするか、しないか」の権限を持っていた「ローマの法律」と「ローマ帝国の権威」に歯向かうことになり「死刑に追い込まれる」はずでした。結局、律法学者たちは、主イエス様がどう答えられても訴えることができる「完璧な袋小路」に追い込んだつもりでした。彼らは勝利を既に掌中に収めたかのように、ほくそ笑んでいたに違いありません。

「訴える口実を得ようと」した者たち者たちは、主イエス様の言葉を待ちました。でもイエスは沈黙したままで、静かに地面に指で何か書いておられたのでした(8章6節後半)。「何を書いておられたのか?」興味のあるとことですが、聖書はこのことについて沈黙しています。  

信仰生活の長い方には、ご経験があると思いますが、「神様が沈黙される時」は、私達信仰者にとって「反省の時、悔い改めの時」と言われます。「私の今やっている事は、御旨から外れてはいないか?」「やっぱりまずいことをしているんだ」と思うことがあったかもしれません。

この時、「律法学者たちやパリサイ人ら」は、思いもよらない予想外の主イエス様の「沈黙」に遭遇して動揺したと思います。早朝に神殿に集まった「敬虔な人々」もヤキモキし、心を悩ませたかもしれません。

その時、主イエス様が「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と語られました(8章7節、8節)。この一言で立場は「逆転」しました。イエス様を訴えて断罪しようとした「律法学者たちやパリサイ人たち」は、逆に「主イエス様の言葉」で裁かれることになりました(マタイ福音書7章1節、2節3照)。因みに、人を裁いて「後ろ指を指す」時、5本の指の1本の人差し指で「罪を犯した人」を指さしますが、残りの4本の内、3本が自分の方に向かっています。

 主イエス様が「罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われた言葉を聞くと、長い人生で色々なところを通り「人は罪深い者だ」ということをよく知ってる「年寄り」から始めて、1人去り、2人去り、やがて全部の者が去って「ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された」のでした(8章9節)

「人は、罪を犯すから罪人ではなく、初めから罪人だから罪を犯すのだ」といわれます。私たちの中には「罪を犯す性質」があり「罪」を犯してしまいます。そんな私達やこの「女性」に対して、主イエス様は「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と言われました(8章10節)。これは「女性の姦淫の罪」また「この世の数々の罪」をいい加減にあしらって不問にしたのではありません。「犯した罪」は必ず償わなければなりません。でも、その「犯した罪」を償うのはこの女性ではなく、主イエス様なのです。何故なら、主イエス様が身代わりに十字架に架けられて、悶え、苦しみ、事切れて、尊い血潮を流されました。その「罪をきよめ、贖う血潮によって」一切を赦して下さったのです(Ⅰヨハネ1章7節)。

 2千年前の「女性の罪」も「現代の私達の犯す罪」も救い主を貶め死に追いやる「律法学者やパリサイ人ら」の罪も、主イエス様を「救い主」と信じるなら「全ては、完全に赦され、清められる」のです。現代の私達もこの主イエス様の御宣言を、そのまま信じて参りましょう。                                     

                        2024年5月26日(日)伝道礼拝説教要旨 竹内紹一郎