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2024年5月19日聖日礼拝説教要

聖書箇所 エゼキエル書37章1節~10節

       聖霊による教会の再興


「彼はまたわたしに言われた、『これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを 悟る』。」
(エゼキエル書37章4節~6節)


あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」
ピリピ書2章13節

 

4年間の「コロナ禍」を経て教会が回復しつつあと思われましが、閉じ込められていた期間のダメージが大きく、教会の弱体が指摘されています。そんな中で「エゼキエル書37章」に記された「枯れた骨の幻」は、「現在の私の姿であり、教会の姿」と言われます。山手教会でも、この4年で礼拝者が半減したことがあります。しかし「エゼキエル書37章」に記された「枯れた骨の幻」に働く「聖霊のお働き」こそ、私達の教会にとって「希望の光」「希望の幻」があることをお伝えします。

 「ペンテコステ(聖霊降臨日)」前の旧約の時代には、「聖霊」は特別な時に特別な人々には働いておられました。その一人が祭司の父親ブジの息子で預言者エゼキエルでした(エゼキエル書1章3節)。当時、神様に従うヨシヤ王が急死し、その息子や孫が南王国ユダの王様になりました。しかし、ヨシヤ王のように「神様に従う」ことをしませんでした。遂に紀元前(BC)597年にバビロン軍が攻めて来て、エルサレムの町が壊され、多くの人々が遠くバビロンに捕囚として連れて行かれたのでした。

「エゼキエル書」の著者のエゼキエルも、当時のエホヤキン王等と共にバビロンに強制移送され(1章2節)、バビロンのケバル河畔のテルアビブの難民キャンプに住みました。彼はそこで、「捕囚の苦しみ」に打ちひしがれていた多くのイスラエル人を愛し、顧み、救い出そうとされる「神様の御心」を語り聞かせたのでした。

本書37章の最初に「主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ」とあります。「主の霊」である「聖霊」が働いてエゼキエルを「連れ出され」、「枯れた骨」の幻を見せて頂いたのでした。当時の預言者は、神様から「幻(ヴィジョン)」を見せて頂き、御心を知らせて頂く人々でした(エレミヤ1章11節、13節、18章5,6節)。エゼキエルも神様から幻を見せていただく預言者です。現代も聖霊は働いておられ、「幻」「将来起こる出来事」を見せてくださいます(ピリピ書2章13節)

この時、「主の霊(聖霊)」がエゼキエルに見せて下さったのは、谷の上に散らばっている多くの非常に枯れていた「人骨」でした(エゼキエル書37章1~3節)。「枯れた骨」とは、罪を悔い改めずに不信仰を繰り返した「神の民イスラエル」が、祖国を滅ぼされて遠い異国のバビロンの地に引かれて行って、「絶望」と「苦悩」と「罪悪感」に打ちひしがれている姿だったのです(37章11節)。その「骨の幻」を見せられたエゼキエルは、絶対に「枯れた骨」は生き返らないと思ったに違いありませんが、「神様が働かれるなら可能だ」(マタイ福音書19章26節[教会共同訳])ということも知っていたのでしょう(エゼキエル書37章3節後半)。

 このエゼキエルに対して、主なる神様は、2つのものに向かって預言するように導かれました。「第一のもの」は、「これらの骨に向かって」預言することです(37章4節~6節)。この御言葉にエゼキエルは忠実に従いました。すると「甚だしく枯れた骨」がゼキエルの語る「預言の言葉(神様の御言葉)によってカタカタと音を立てながら結び合わされ、完全な体ができたのでした(37章7節、8節)。「しかし、その中に霊はなかった。」とあります(「8節」の後半)。肉体は回復しましたが、十分ではありません。

捕囚の憂き目に遭ったイルラエルの民は、当初「絶望と屈辱」「苦悩と罪悪感」に打ちひしがれていたのですが、徐々にバビロンの地に馴染んで、ある者は商売をして成功し、またその他で成功するものも現れました。しかし、バビロンの地での繁栄の回復は、「神の民イスラエル」にとっては空虚なものでした。人は、物質や環境だけで満足するようには造られていません。造ってくださった真の神様(三位一体の神様)の懐に帰り、その中に憩うまでは、決して満足はないのです。 

主なる神様は、エゼキエルに「息に預言せよ」と語られました。このところで「息」と呼ばれています「聖霊」が人間に臨まれると、人間は本当に生き返って、自分の足で立って「生きる者」のとなり、「はなはだ大いなる群衆となった」とあります。これこそ「完全な回復」となります(37章9節、10節)。人間は、「聖霊」を頂いて生かされ、三位一体の神様と共に歩む時、初めて「完全な回復」が与えられます。

でも、皆さんの中には、「それは、エゼキエルの話です」「聖霊がどこにおられるのか分かりません」と失望されていいる方もあるかもしれません。でも「聖霊」は私達と共におられます。その事が「ハッキリ分かる近道」は「祈ること」です。山手教会の「尊い伝統」に「祷告の祈り」があり、「祈りて倦まざるべし」(エペソ書6章18節)と久正先生以来、語り続けられて来ました。

祈って、祈って、祈っているなら、必ず聖霊が働かれ、御業が顕れます。「万事、聖霊。万事、祈祷」「祈りて倦まざるべし」です。その「聖霊」については、多くの人が誤解されているので、バックトン先生はこう言われます。「私は40余年前、日本に参ります途中、ナイヤガラの滝を見ましたが、その水勢は(40年後の今も)少しも変わりません。ペンテコステ以来、聖霊は今も少しも変わりません。聖霊の大河は今も堂々洋々と流れています。(しかし)悪魔は、今はもう流れていないと言います。『ヒー・イズ・ア・ライアー』(彼、悪魔はうそつきです)。流れていてもチョロチョロであると言います。『ヒー・イズ・ア・ライアー!』(彼、悪魔はうそつきです)」(バックストン先生が最後に日本に来られた1937年[昭和12年]の6月1日の夜、神戸新開地の伝道館での歓迎会の時のスピーチ)。

現代も変わらず「聖霊」は働いておられ、大河の流れのように流れ下っておられます。その事を信じて、祈って、祈って、祈っているなら、必ず「聖霊」が働かれて御業が顕れます。「万事、聖霊。万事、祈祷」「祈りて倦まざるべし」です。祈るなら聖霊が働かれ、あなたの前に主の御業が顕れます。

エゼキエルが、御言葉を語り、預言した時、「聖霊」によって「枯れた骨」に「生命」が与えられて生き返りました。今の時代も、「祈りに祈って、御言葉が語られる」ところに、「聖霊」が働いて「永遠の命の恵み」が人々に与えられ、教会は再興され、「御国の世継ぎ」が多く与えられます。「祈る山手教会」にも大いなる御業が顕れます。

       2024年5月19日(日)聖霊降臨日礼拝説教要旨 竹内紹一郎