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2024年3月24日聖日礼拝説教要

聖書箇所  使徒行伝28章16節~22節       


       「同族(家族)の救い」

「神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」       
(ローマ8章28節)


「わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に 絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身が のろわれて、キリストから離されても いとわない。」
(ローマ書9章1~3節)

「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」      
(Ⅰコリント書15章58節)



 ローマでの「パウロの生活」は、重罪人のようにではなく、ある程度の自由を許され、好意的な取扱いを受けていました(使徒27章16節)。特に、「ひとりの番兵」「ひとりで住む」とあります。普通、囚人の逃亡を避けるために「二人以上の番兵」がいるはずです(ペテロが逮捕された時は「四人一組の兵卒四組に引き渡して、見張りをさせておいた。」〔12章4節〕)。パウロが逃げる可能性がなく、彼を監視するのではなく保護するための番兵だったのでしょう。それに「使徒行伝」の最後には「自分の借りた家」に住み伝道(28章30節、31節)したのですから、「破格の待遇」です。

おそらくローマへの旅路の道中、「カイザリヤでの裁判」を受けた時には、関係者から「あの人は、死や投獄に当るようなことをしてはいない」(26章31節)、「あの人は、カイザルに上訴していなかったら、ゆるされたであろうに」(26章32節)と言われていたので、総督フェストのローマ当局への書状にも、被告人のパウロには好意的で有利なことが書いてあったと思われます。また、難船した船の中で「パウロがどんなに大きな貢献をしたか」は近衛隊の百卒長のユリアス(27章1節、3節、43節)から報告がされたとも考えられますので、パウロは「重罪人のようにではなく、ある程度の自由を許されて好意的な取扱いを受けることができた」のでしょう。

パウロは、それまで幾度も「ローマに行こう」と試みましたが、その都度妨げられて果せなかったのでした(ローマ人への手紙1章)。しかし神様は、彼が計画した方法とは違う「思いがけない方法(囚人という形)」で、何年もの紆余曲折の連続で彼をローマに到着させました。しかも「官費(公のお金)」でローマに来ることが出来ました。

このように、「パウロのローマ行の希望」は全く予想もしなかった姿で実現したのでした。信仰者は、「神の約束の成就」をあれこれと予想してはならず、どんな状況の中でも「神様のご真実」を信じて、従って行くなら「神様の方法」、「神様の段取り」で事を成就されるのです。

「ちいろば牧師」榎本保郎先生は、アメリカと台湾の伝道旅行で色々な経験をされました。「良いこと」ばかりでなく「不安や心配」な時もあったのですが、全てを終えてみると、「神は生きておられた」と実感されたのでした。その榎本先生は、「不安や心配というものは、神の真実を自分の考えのわくの中で信じようとするときのものであった。私たちに対して神はいろいろな約束をしていてくださる。その実現の過程は私たちにはわからない。私たちの予想どおりはない。しかしたいせつなのは神の御心の成就であって、私たちの予想の実現ではない。そのことを見きわめて、どんな状況の中でも生ける神を信じて従っていくことが大切である。あせったり不安になってはならない。神は神の計画どおりに、ご自身の約束を成就なさるのである。」と言われます。

主イエス様を信じて福音に生きようとする人には、環境や境遇や事情だけではなく「全てが前進のきっかけ」となります。神様は必ず、「神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ8章28節)のです。この御言葉(ローマ8章28節)の教える道筋を、今、私達は歩んでいます。何が起こっても「万事を益とされる」神様にお従いしましょう。

2021年11月から約2年半に亘って「使徒行伝」から主なる神様の語り掛けを聞かせて頂いて来ました。その中でパウロの「3回の伝道旅行」でも「ローマでの伝道」でも、まず初めに「ユダヤ人の会堂」(使徒行伝の9章以降、最後まで22回記されています)に入って、彼らに向けて救い主であるイエス・キリスト様を伝えるパウロの姿を見ます。ユダヤ人が旧約聖書に記された「真の神様」と「御言葉」を知っているので、主イエス様の福音が宣べ伝えやすかったこともあるでしょう。現代でも、教会に行ったことがなく神様も聖書の御言葉も知らない人よりも、神様の存在と御言葉を少しでも知っている人に伝道するのは容易に思います。ですからパウロも、御言葉の民であるユダヤ人に最初に伝道したのしょう。パウロの伝道の足掛かりとしては、「ユダヤ会堂」は最初にアプローチする対象でした。

 更に、もう一つパウロがユダヤ人に伝道した理由は、やはり「同族の救い」「同族のユダヤ人の救い」を心から願ってのことです(ローマ書9章1~3節)。現代の私達も「一番、救われてほしい」のは「夫」であり「妻」であり「子ども」であり「孫」、また年老いた「親」ではないでしょうか?

更に、「ローマ書10章」には「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼ら(同族のユダヤ人)が救われることである」(同書10章1節)とあります。パウロは、同族のユダヤ人」のことを思い、愛していることが分かります。ですから彼はどの町に行っても、まず「ユダヤ人の会堂」から伝道を始めました。

今朝、私たちは「この点」に心を留めたいのです。私達も血の繋がった「我が子」、「我が孫」、「親」、「兄弟」が救われ欲しいと思います。ただ実際の問題として、私達は家族や親族や知人・友人の救いを祈るのですが、「いくら祈っても、成果が見えてこない・・・」「逆に、煙たがられる・・・」というような目の前の現実に押し潰されて大切な祈りを止めてしまっていることはないでしょうか。「もう無理・・・、あいつは、あの人は、あの子は救われない」と諦めていなしでしょうか。

 今日の週報の裏表紙の、神様に依り頼むことによって孤児院を建て運営した「ジョージ・ミュラー」の記事では、ミュラーはまだ救われていない5人の人々のために祈り始めました。その全ての人が救われたのですが、最後の1人が救われたのはミュラーの死後のことだったそうです。

私達は、「諦める」ことから「祈り続ける」ことに方向転換しましょう。パウロは「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」(Ⅰコリント書15章58節)と言います。祈りを聞かれ、父なる神様に執り成してくださる主イエス様を信じて、今日から、祈りを再開しましょう。

          2024年3月24日()  聖日礼拝説教要約 竹内紹一郎