本文へスキップ

message

2024年3月3日聖日礼拝説教要

聖書箇所 使徒行伝28章1節~10節     
        
       いまにいたるこそ 主のめぐみなれ

「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」      
(イザヤ書55章10、11節)


「いまにいたるこそ主のめぐみなれ まもりのみてをばなどうたがふべき」
(霊感賦26


「神の恵みによって今のわたしがあるのです」
(Ⅰコリント書15章10節[協会共同訳]

 

 半月の間「ユーラクロン」という暴風に翻弄され、地中海の荒れくれる海を漂流していた船に乗っていたパウロを始め「276人全員」が救われて、たどり着いたのは「マルタ」とよばれる、長靴の形をしたイタリヤ半島の靴の先から南南西に約300km程の地中海にある島でした(使徒28章1節)。

 パウロ達が暴風に翻弄されて地中海の荒れくるう海を漂流していた時、主なる神様の御使い(天使)が、パウロのそばに立って「パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている」【別の最新の翻訳聖書:神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。】と御言葉を語ったことは、前回までに学んで来ました。

そこでパウロは、「皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」(使徒27章23~26節)と同船の人々を励ましたのでした。そして天使の語った御言葉の通り、同船の「276人全員」が救わて「マルタ島」に打ち上げられました。

主の語られた御言葉は、必ず成就します。「イザヤ書」に「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかて()を与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」(同書55章10、11節)とある通りです。

 今から丁度25年前の1999年の春、日曜礼拝も出来なくなっていて「閉鎖状態」の「深谷西島教会」に家族4人で赴任しました。そのように導かれたのは、その一年半前の1997年10月の「キリスト伝道隊」連合聖会で、「イザヤ書」の「(彼は)・・傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」(同書42章3節[新共同訳])が、私の心に留まったからでした。ところが、この御言葉を頂いた翌年には、入居予定の牧師館に住むことが出来なくなり、計画は頓挫しました。

でも私の心から「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」という御言葉は、ずーと残っていました。そうこうしている内に「牧師館の代わりにアパ―トを用意します」「来て下さい」とお招き頂いて、「閉鎖状態」で借地の上に礼拝堂が立っていた深谷西島教会に赴任しました。あれから四半世紀(25年)が経ちましたが、教会の「灯」は消えずに教会は存続いています。「イザヤ書」の「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(同書55章10、11節)の通りです。御言葉をしっかり聞き心に受け止めて信じるなら、主はその御言葉に依って御自身の「御業」をなさるのです。

 更にパウロの姿を見ていきます。嵐の海から救われた人々が上陸した「マルタ島」の人々は、「並々ならぬ親切をあらわしてくれ…降りしきる雨や寒さをしのぐために、火をたいてわたしたち一同をねぎらってくれた」(使徒28章2節)のでした。

 パウロも、一緒に舟に乗っていた人々に仕えるために、忙しくしていました。以前学んだ「使徒行伝20章」で、彼は「あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」(使徒20章35節)と言っていた通りに、人々に仕えていました。

ところが、そのパウロが毒蛇の「蝮(まむし)」に噛まれたのでした(使徒28章3節)。現代の日本でも年間2千~3千人が蝮に噛まれて、約10人程が亡くなっているそうです(勿論、病院に行って治療を受けて助かるのですが、それでも10名ほど亡くなっています)。パウロの場合は2千年前の事ですから、大した治療法もなく致死率は相当なものでしたでしょう。

 「マルタ島」の人々はパウロを心配しつつ、一方で「この人は、きっと人殺しに違いない。海からはのがれたが、ディケーの神様(最新の翻訳聖書「正義の女神」)が彼を生かしてはおかないのだ」と言い合っていたのでした(使徒28章4節)。でも結局、パウロは何の害も受けずに元気に動いていたので、、島の人々は「考えを変えて、『この人は神様だ』と言い出した」のでした(28章5節、6節)。

以前、パウロとバルナバがイコニオムの町で伝道していた時、生まれつき足の不自由な人に、「大声で『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は踊り上がって歩き出した。群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ…『神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ』と叫んだ。」(使徒14章10節~11節)とありましが、「神々」と祭り上げられたパウロバルナバに人々が「犠牲をささげよう」した時、彼らは「これを聞いて自分の上着を引き裂き、群衆の中に飛び込んで行き、『皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである』と言って、やっとのことで、群衆が彼らに犠牲をささげるのを、思い止まらせた」のでした(14章12~18節)

人が神に祭り上げられて、「その気になる」ことほど恐ろしいことはありません。神様は必ず、その間違いを認めさせるために、厳しく「取り扱われる」ことでしょう。私たちも「どんなに、恵まれても」「どんなに用いられても」、高ぶってしまえば程なく全てを失います。

 私たちにとって大切な事は、いつでも「いまにいたるこそ 主のめぐみなれ。」(霊感賦26[新聖歌89番「神は独り子を」や新聖歌182番「ただ信ぜよ」を作詞した「三谷種吉先生」が出版])と言える信仰生活です。現代の聖書の御言葉では「神の恵みによって今のわたしがあるのです」(Ⅰコリント書15章10節[協会共同訳])です。すべては神様の恵みによるのですから、私たちは栄光を主にお返しします。「いまにいたるこそ 主のめぐみなれ(神の恵みによって、今わたしがあるのです)」こそ「私達の立ち位置」です。ここから外れる祝福を失います。                          
            2024年3月3日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎