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2024年2月25日聖日礼拝説教要

恵まれたクリスチャン生活を送るために(2)


              霊的力の充電の時


「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることがない」
(イザヤ書40章31節)


 いずれの宗教でも祈りはあります。無病息災、商売繁盛、学業成就、交通安全等を祈念いたします。そしてキリスト教でも神に祈ってお願いすることがあります。しかしキリスト教の祈りは願い事だけではなく、霊的力(聖霊)の充電をする時なのです。

 マタイ福音書14章23節に「そして群衆を解散させてから、祈るためにひそかに山に登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」とあります。これはイエスの霊的力の充電のときだったのです。

 この章の前半に、イエスが5つのパンと2尾の魚で、男だけで5千人を養うという奇跡をされましたが、その後イエスはひとりで山に登って神と交わり、霊的力の充電の時をもたれたので、この後も次々と著しい働きがなされたのです。

 前掲のイザヤ書40章には「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たな力を得、わしのように翼をはって、のぼるころができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることがない」とあります。これは祈って霊的力を充電した人の事です。鷲は他の鳥と違って、嵐の中でも飛ぶことのできる元気な鳥です。わたしたちも霊的力の充電、つまり聖霊の力に満たされたら元気に活躍することができるのです。

 車のエンジンを始動するためにはバッテリーの力が必要です。ところがうまくできているもので、エンジンが回転すると、その回転を利用して発電してバッテリーに充電するので、バッテリーはいつも元気に始動することができるのです。わたしたちの霊的魂も神に交わって聖霊に満たされているなら、いつも元気に働くことができるのです。

 宗教改革者のマルチン・ルターはこんなことを言いました。「忙しければ忙しいほど、多くのときを祈りに費やさなければならない」と。つまり、忙しいときは魂が亡びるからと言っているのです。忙しいという字は「心が亡びる」と書きます。つまり、忙しいときは心が亡びるときであるから祈って霊的力を充電しなさいと言っているのです。

 ルカ福音書10章38節以下に、イエスが12人の弟子たちを連れて、ベタニヤ村のマルタ、マリヤの家を訪問したときのことが書いてあります。いきなり13人の客人を迎えた姉妹は大変でした。姉のマルタは一行をもてなすために台所で立ち働いていましたが、ふと気がつくと妹のマリヤが見当たらないのです。探してみるとイエスの側で恍惚とした顔でイエスの話を聞いているのです。それを見たとたんにマルタは心を取り乱し、イエスに文句を言いました。「妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか」と。これは本来、妹に言うことです。ところが、余りにも忙しさに冷静さを失って八つ当たりをしたのです。

 そこでイエスは言われました、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかしなくてならぬものは多くはない。いや、1つだけである。マリヤはその良いほうを選んだのである。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」と言われました。つまり、神と交わり霊的力の充電をするほうが大切だと言われたのです。

大西洋の船の上で2人の牧師が出会いました。お互いに服装でそれと分かりましたので挨拶をしました。ひとりは大都会の大きな教会の牧師で、もうひとりは田舎の小さな教会の牧師でした。大教会の牧師は少し得意になって、自分の教会がどんな大きな教会で、どんなに忙しく働いているか話をしましたら、それを小さな教会の牧師は黙って聞いていましたが、大教会の牧師の話が終わったところで、田舎の教会の牧師は言いました。「そんなに忙しくしていて、いったいいつ祈るのですか」。それを聞いて大都会の牧師はハッとして、それ以上話を続けられませんでした。

 それから、自分の教会に帰って一緒懸命に祈る人になって、これまで以上に用いられていい働きをする牧師となったということです。

 前回(1月21日)にもお話をしましたが、わたしは毎朝1時間ほど禱告の祈りをします。ひとりひとりの名前をあげて、1日の健康と祝福のためにお祈りしますが、この時間はまたわたし自身の霊的力の充電の時間なのです。そして1日を力強く生かしていただいております。

 皆様もどうか、神との交わりを大切にして霊的魂の充電の時間をもってください。そうすれば、力強い日々を送ることができます。

                                                   坊向輝國