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2024年2月18日聖日礼拝説教要

聖書箇所 使徒行伝27章21節~44節       


    「世に勝つ者はだれか」


「わたしこそあなたを慰める者だ。」
(イザヤ書51章21節)


「昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる(礼拝している)神からの御使が、わたしのそばに立って言った、『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている(あなたに任せてくださったのだ)』。
(使徒27章23、24節
[口語訳・聖書協会共同訳]


「わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」  
(Ⅰヨハネ書5章4、5節)

 

前回は、使徒行伝の著者である「ルカの目の前で繰り広げられた出来事」から、御心を伺いました。今日は「使徒パウロの姿」から御心を導かれたいと思います。

パウロ達を乗せた舟は、暴風ユーラクロンで「幾日ものあいだ、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みもなくなった」(使徒27章20節)とあり、著者の「ルカ」は勿論、パウロも同じ思いだったのではないかと思います。

しかし、そんなパウロが、「この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいない」(27章22節)と言う事ができたのは「神からの御使い(天使)」の「パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている(「あなたに任せてくださったのだ」協会共同訳)」との一言があったからでした(27章23、24節)。

以前も、エルサレムで暴徒に殺されそうになり、千卒長の許で裁判を受けている時も、その夜、主なる神様が「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」(使徒23章11節)と慰め励まされたのですが、、今回も大嵐の最中に「生きるか、死ぬか」の境目で、「助かる最後の望みもなくなった」その時も、主なる神様の御使いが「恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない」と御言葉を取り次いで語ってくれたのでした。私達が信じて従っている神様は、「その時々に適った方法」で私達を慰さめ、励ましてくださいます(イザヤ書51章21節)。

 パウロが確信をもって語った言葉は、今年正月2日に発生した日航機事故でのCA(客室乗務員)の方々の確信に満ちた言葉と誘導と同じように、「助かる最後の望みもなくなった」人々には大きな励ましになったでしょうが、その背後には「わたしが仕え、また拝んでいる神(礼拝している神)からの御使が」(27章23節)との信仰生活の土台がありました。ある牧師は「普段、神様に『仕え、そして礼拝して』いなかったら、いざと言う時、神の保証を信じることは難しいだろう」と言われます。「礼拝を捧げる生活」こそ信仰生涯の土台であり、また人生の危機や困難から救われる「神様の保証」が与えられるものです。

パウロの確信に溢れた言葉に励まされた人々を乗せた「船」はアドリヤ海を漂流し続けましたが、水夫の長年経験で「陸地に近づいたように感じた(船の前方で波の砕ける音を耳にしたので:専門家の見解)」のでした。そこで水深を測ると、船が確実に陸地に近づいていることがわかり、「暗礁に乗り上げては大変」と、いかりを下ろして辺りを見渡せる「夜明け」を待ちました(27章27~29)。ところが、この時、「自分たちのことしか考えない水夫たち」は小舟で逃亡しようとしたのでしたが、パウロに見つかりまして、船の操船にかかせない水夫の逃亡は、止められました(27章30節~32節)

夜が明け、あたりが明らかになるとパウロは「食事すること」を勧めました(27章33節~38節)。この頃には、パウロは「船のことを取り仕切る立ち場」に立っていました。それまでの経緯(いきさつ)を考えると、船長や、無責任な水夫達に代わって船に乗る人々の安全はパウロの手に掛かっていることが明らかだったからです。

米田豊先生は「いまやパウロは、船長や船夫以上に指揮者の地位を占めるようになった。経験も知識も全く役だたなくなる時、ひとり信仰だけは有効的に行動する。そして、信仰は最後の勝利である」と言われます。確かに、船の最高責任者であった「船長」も当てにならず、水夫たちに至っては、「職務放棄」で船から逃げようとしたのですからまったく信頼できません。

私達の人生(信仰生涯)の出来事について、その道の専門家にお願することがありますが、専門家でもどうにもならないこともあります。その時、あなたは、その背後におられる御方様である主なる神様に「信仰の目」を留めるのではないかと思います。この時、パウロも、船長や水夫ではなく、死から甦られた「復活の主イエス様」に目が留まってたのです。「ヨハネの第一の手紙」には「わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた 勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(同書5章4、5節)とあります。

この御言葉の通りに船長や水夫よりも「復活の主イエス様」を信じているパウロが、その信仰の故にアドリヤ海のこの大嵐に勝利しました。そして、その信仰者のパウロを人々は信頼したのでした。彼は、この時、「14日(2週間)近く」、船酔いも含めて何も食べられず、不安と失意と落胆で食べる気にもならなかった人々に食事を勧めました。相当に体力が消耗していたのですが、パウロが言い出さなかったら、そのままだったかもしれません。パウロは「日ごとの糧を与えて下さる主なる神様」に感謝して食事をさせたのでした(27章33~38節)。ある聖書学者は、「その際、パンを頂く人の数を、ルカは一人一人数えて」「舟にいたわたしたちは、合わせて276人であった」(27章37節)と記したと言います。「なるほど・・・」と思いますが、それはルカの目の前で「実際に起こった事実である」ことの一つの証です。 

その後、やっと待望の陸地が見えて「これで、助かる」と思ったのですが、「舟は浅瀬に乗り上げ…壊れていった」のでした(27章39~41節)。それに加え、ローマ兵の規則ではパウロを始め囚人の逃亡の危険がある時は、彼らを殺すことが行われていました。しかし、百卒長ユリアスは今までの「パウロの貢献」を思い、船の上にいる者全ての恩人であるパウロを何んとか救おうとしました。その結果、パウロも囚人たちも他の船客も全員上陸して助かったのでした(27章42~44節)。

 現代おいても同じです。真実に主なる神様に仕え、礼拝している一人の人が、信仰に立ってこの世を進む時、その人の故に回りの人々も多くの困難から助けられ、更に「救いの恵みに与る」ことも出来るようになるのです。また、世の専門家でも歯が立たない困難に遭遇したとしても、「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではない。」(Ⅰヨハネ5章5節)の御言葉は現代にも「アーメン」です。

まず、死人の中から「復活された神の独り子主イエス様」を信じて参りましょう。その時、あなたに勝利が与えられ、そして、あなたの周りの人々も救われるのです。

                          2024年2月18日 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎