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2024年2月11日聖日礼拝説教要

聖書箇所 新約聖書 使徒行伝27章1節~20節        


         「南風の教訓」    

「時に、南風(なんぷう、みなみかぜ)が静かに吹いてきたので」  
(使徒27章13節)


「しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。」
(ヨナ書1章3節)


「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」
(
ローマ書8章14節)


 パウロが皇帝に上訴して「舟でイタリヤに行くことが決まった時」、ルカが同行したことが「わたしたちが」(使徒27章1節)で分かります。この「使徒27章」は「一人の信仰者パウロが共に船にいる」ことによって、無謀な航海で船が難破しながらも、一人の命も失う事がなく乗船者276人全員が助かったという、ルカの目の前で「繰り広げられた出来事」の証の記録です。。

主イエス様が「あなたがたは地の塩である」(マタイ福音書5章13節)と言われましたが、「一振りの塩」で料理の味が引き立ち、また食品が腐らないように、一人のクリスチャンが「真剣に主なる神様を信じている」なら、周りの人々を生かし、また駄目になる事があってもそこから救われるのです。

 同行した「ルカ」が見たもう一つは、神様の約束は「必ず成就する」という事です。パウロは主イエス様から「あなたは、…ローマでもあかしをしなくてはならない」(23章11節)との約束を頂いていましたが、ルカはその御言葉の約束が、どんな事がありましても成就したこと(ルカ福音書2章45節参照)を目の当たりにして書き記したのでした。

なお、「近衛隊の百卒長ユリアス」はローマ皇帝直属の部隊に属し、被告人パウロとは初対面と思われますが、「パウロを親切に取り扱い、友人をおとずれてかんたいを受けることを、許し」(使徒27章3節)ました。この破格の厚遇の理由の「一つの可能性」として、彼が「ローマ皇帝カイザルの親衛隊、近衛隊の百卒長」であって、当時のローマや(ローマ書16章)、「カイザルの家の者たち」(ピリピ書4章23節)にも多くのクリスチャンがいて、ユニアスの回りの知人・友人・家族などにはクリスチャンがいたかもしれないので、同じ救い主イエス様を信じているパウロに親近感を抱いて破格の待遇を許しても(使徒27章3節)不思議ではありません。それは憶測ですが、私達がクリスチャンとして忠実に励んでいれば、どこかで他のクリスチャンがパウロのように恵まれることもあり、逆に関係するクリスチャンの方が良き証を立てておられたら、私達が思わぬ恵みを受けることもあります。

港町シドンでの恵まれた主にある交わりの後、パウロ達一行はローマに向かって船出しました。この時期は夏も終わり地中海を吹く風は「西風」で「逆風」なのでパウロ達を乗せた船は陸地に近いところを航行し(27章4節~8節、週報裏表紙の地中海地図参照)、やっと「良き港」に着きました。既に「断食期も過ぎてしまい」10月になっていて「航海が危険な季節」(27章10節)でした。

祈りの内に、皇帝のカイザルとローマの町の人々に「主イエス様の十字架と復活の福音」を証できるよう願って「ローマへの船旅の安全」を日々祈って御心を求めていたでありましょうパウロは、「積荷や船体ばかりでなく、われわれの生命にも、危害と大きな損失が及ぶであろう」(使徒27章10節)  と警告しました。祈っていると「確かな導き」が与えられることは良く経験されることです。またパウロは、それまでに「難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂った」(Ⅱコリント書11章25節)のでした。祈りの内に示された御心と、今までの3回の難船の経験、更に誰もが知っている「地中海が荒れる季節」であったので「危害と大きな損失が及ぶ」と警告したのでした。しかし、パウロの警告は船長や船主と船客から無視され、近くの「ピニクス」の港で冬を過ごそうと大多数の者が願いました(27章11節~12節)。

更に、丁度この時「南風(なんぷう、みなみかぜ)」が吹いて来たので、彼らは「この時とばかりにいかりを上げて、クレテの岸に沿って」ピニクスの港を目指して航行したのでした。でも、クレテ島の海抜1400メートル程の山々から吹き降ろす暴風「ユーラクロン」が発生しました。船はこの風のために流されるしかなく、何とか「クラウダ」という小さな島陰で「小舟」を処置しました(27章16,17節)。しかし、暴風はすさまじく吹き降ろして対岸のアフリカの「スルテスの洲」という浅瀬に乗り上げて座礁しないかと心配でしたので、流れに任せた状態が14日も続きました(26章27節)。

航海で難船した経験もあり、祈りの内に聖霊に導かれて語ったパウロの警告を顧みず、「時に、南風が静かに吹いてきたので」(26章13節)、「これ、幸い」と船出した結果は「私たちの助かる最後の望みもなくなった」ということでした(26章20節)。

これとよく似た出来事が、「ヨナ書1章」に記されています。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。」(ヨナ書1章2節)と言われたのに、正反対の「タルシシ(現在のスペイン)」に向かったヨナは、「ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った」(1章3節)ところ、「時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあっ」(1章4節)て、ヨナは大変な目に遭いました。

 大事なのは、「祈りの内に、聖霊によって与えられた導きに従う」ことです。バックストン先生の秘書をされていた米田豊先生は、「ここにも私たちの学ぶべき教訓がある。御霊の声を聞いた時、その場ですぐに従わずに、自分の考えでそれを値切ったり、延ばしたりすれば、ちょっとした事と思ううちにも大きな困難が起ってくることがある。悪魔は、御霊の声に従わせまいとして、巧みに南風を送って誘い出すので、注意しなければならない」と言われます。「南風(なんぷう、みなみかぜ)」には注意し、お祈りして「主の御心か、どうか」を主に伺って参りましょう。

 とはいえ主なる神様は、失敗しやすく頑なな私達を愛しておられます。西洋のキリスト教国の諺に「人の窮したところが、神の機会である」とあります。預言者ヨナもパウロと一緒に舟に乗っていた人々も困難な大嵐の中で、神様の尊い「お取り扱い」と「救い」を経験しました(ヨナ書2章、使徒27章)。

米田先生は、「自分にたよって失敗したのち、初めて目がさめて神にたよっても、神のあわれみを受けることはできる。しかし私たちは、初めから自分にたよらず、自分の道に歩まず、神の声に従って行動したいものである。そうすれば困難や患難にあわずにすむ場合がいくらもある。自分にたよる者はいつも損失と恥辱を受ける」と言われます。私たちは御宝血で贖われて「神の子供」されていますから「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」(ローマ書8章14節)とあるように、御霊の声を聞いた時はその場ですぐに従いましょう。そして悪魔からの「南風」の誘惑をしっかりと断りましょう。

    2024年2月11日()  聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎