本文へスキップ

message

2024年2月4日聖日礼拝説教要

聖書箇所 使徒行伝26章19節~32節    


           「直ちに従う信仰生活」 

「神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。」                
(創世記22章2,3節)


「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。  雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。」                                   
 
(マタイ7章24節~27節)


「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」            
(Ⅰコリント書12章3節)



 パウロは、復活の主イエス様に出会ったことで、今までのキリスト教会を迫害し多くのクリスチャンを傷つけて死にまで追いやった「教会迫害者」であったことを悔い改めました。しかし、その「過去の愚かな姿」から一転、180度「方向転換」して主イエス様を「救い主」として宣べ伝える事には大きな抵抗があったのではないかと思います。私達も「自分の今までの行動が間違っていた」と気づいた時があると思います。その時、方向転換して間違いを認めるのは辛い事だと思われたのでないでしょうか。でも、この時、パウロが、「天よりの啓示(使徒26章16~18節)にそむかず」新しきく歩み始る事が出来た「秘訣」があります。

 パウロは、復活された主イエス様に出会ったショックで3日間、何も食べていませんでしたので、「ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。」(使徒9章19、20節)のでした。

ここで、「ただちに」とあります。少し日にちを置いてから、今までの自分を捨てて主イエス様を「救い主」として宣べ伝えるこは大きな抵抗があって、時が経つに従って後ろ向きになったのではないかと思います。ですからパウロは「ただちに」従いました。

「信仰の父アブラハム」に長く待ち望んだ待望の「約束の子イサク」が生まれ、イサクが育っていった時も、主なる神様が「イサクを燔祭として捧げなさい」と言われました。アブラハムは悩みました。でも御言葉だからと「朝はやく起きて…出かけた」のでした(創世記22章2節、3節)。アブラハムが神様のお言葉に従えたのは「朝早く起きて」、「即、御言葉に従った」からです。

私達の信仰生活でも、礼拝や祈祷会やデボーションで御言葉が語り掛けられますが、「すぐにお従いします」と応じて行動しますか?それとも「今は都合が悪いので、後で従います」「明日から始めます」「来週から始めます」と答えますか。私達は御言葉を頂いても「すぐに」「ただちに」従わないと、結局「いつまで経っても従えなかった」で終わるのではないかと思います。

 主イエス様は、「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。」(マタイ7章24節~27節)と言われます。主が、あなたのために語られた御言葉に「ただちに」「すぐに」「朝早く」に従ってください。それが、主なる神様の「祝福され信仰生涯」になるか、「味気ない、不満ばかりの信仰生涯」を歩むかの「分岐点」です。主の語り掛けなさる御言葉には、「ただちに」「すぐに」「朝早く」に従いましょう。

さて、パウロが、主イエス様の御言葉に「ただちに」従って行ったのですが、大きな問題を抱えることになりました。エルサレムには「数万人」のユダヤ人クリスチャンがいたのに迫害を受ける事なく信仰生活を送っていましたが、「異邦人にも救いがある」と述べるパウロは許せなかったのでしょう(使徒26章21節)。パウロは「異邦人問題」で、ユダヤ人に神殿境内で殺されそうになったのですが(21章、22章)、千卒長のルシアによって救い出されました。パウロ自身も自らの「ローマ市民権」を用いて鞭打ちを逃れました。更に、エルサレム在住の「甥っ子」によって暗殺計画からも救われました。全て背後におられる主なる神様のお助けによることでした(26章22節)。私達も、今までの歩みを振り返ってみますと、「あの時」「この時」と神様に守られて今に至っています。

パウロは「預言者たちやモーセが、今後起るべきだと語ったこと」(26章22節の中程)をそのまま述べたとあります。これは、「旧約聖書」のことです。パウロは、常に聖書の御言葉から語りました。その内容が、「キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ること」(26章23節)でした。これらは「イザヤ書53章」や「詩篇」の御言葉から来ています。

続いて、パウロの語る福音を聞いた「二通りの人間の姿」が記されています。第一は、福音を聞いても意味が分からない「フェスト」です。彼は、「永遠の祝福に至る福音」が全く分かりません(26章24、25節)。私達の回りにも、こういう方が沢山おられると思います。その方には、「聖霊が働いて下さり、福音がわかるように」お祈りしつつ、「愛の業に励むこと」が大切です。「福音」は理解出来なかったとしても、「愛されている」ことは分かるからです。

また、柘植先生は「日本のリバイバルは神癒からですよ」と言われました。柘植先生の時代も現代も、病める多くの人があります。「我が臨在、汝を癒せり」「わたしは主であって、あなたを癒すものである」       (出エジプト15章)とおっしゃる主なる神様を信じて、「神癒」をお祈りすることも伝道の一つです。

更に、もう一人の「アグリッパ王」については「アグリッパ王よ、あなたは預言者を信じますか。信じておられると思います」(26章27節)とありますように「イザヤ書」を始め「預言書」を含めた「旧約聖書」も理解していました。キリスト教についても見聞きしていました。しかし、「何かが主イエス様を信じてお従いする」ことを妨げていたのでした。「この世のもの」が邪魔して、決心に至らないのです。「コリント人への第一の手紙」には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」(同書12章3節)とあります。ということは「聖霊が働かれれば」救われると言う事です。アグリッパの様な方々のためにも「聖霊が働いて下さるように」お祈り致しましょう。

 新しい年度からは、伝道礼拝も始まります。今より魂が救われるためにも名前を挙げて、救われなさるように「執り成しの祈り」をさせて頂きましょう。

          2024年2月4日()聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎