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2023年11月12日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所  使徒行伝24章1節~21節     


 「パンデミックのキリスト教」  


「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」
(ヨハネ福音書13章34節~35節)


「愛と善行とを励むように互に努め・・・・、」        
(ヘブル書10章24節)

「 わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」                          
(ヨハネ福音書14章6節)


「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである 」
(Ⅰコリント書15章20節)


「あなたは、これらの言葉に励まされて、信仰と正しい良心とを保ちながら、りっぱに戦いぬきなさい。 ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。」
(Ⅰテモテ書1章18節後半~19節)


前回に言及しました「千卒長クラウデオ・ルシヤ」の手紙(使徒23章25~30節)で、パウロは「神様の定められたローマへの旅路の第一歩」を具体的に踏み出すことになりました。その手紙の宛先人の総督ペリクスの前での裁判では、ユダヤ人の大祭司アナニヤではパウロを上手く訴えることが出来ないので、ローマ人の法廷での訴えを得意とするテルトロを弁護人に選び同行させました(24章1節)。

テルトロは、当時のローマの裁判ではお決まりのフレーズの挨拶を述べた後(24章2~4節)、パウロを始め当時のキリスト教を信じるクリスチャン達を、ユダヤ人が「どう見ていたか」を明らかにして、「この男は、疫病のような人間」(別翻訳聖書「この男は、まるでペストのような存在で」)と訴えました(24章5節)。当時のキリスト教は、得体のしれない「疫病(伝染病)」、現代なら「新型コロナウイルス」のような「感染症」のように「あっー」と言う間にどんどん広まって行く驚異的な感化力のあるものだと言ったのでした。

私達クリスチャンは、「疫病」でも「伝染病」でも「感染症」でもありませんが、当時のキリスト教の伝わる速度は「疫病のような」と表現される程の勢いでした。週報の裏表紙の「アメリカの大覚醒」の資料で、300年程前のアメリアの人々は信仰に目覚めて、当時のアメリカ社会全体にその「目覚め」「大覚醒」が急速に広がったのです。そして4回に亘る「大覚醒」によってアメリカは熱烈なキリスト教国家になり、現在人口3億3千万人の約8割がキリスト教徒となっています(週報裏表紙【礼拝説教資料】参照)。

 パウロの活躍する2千年前のローマ帝国においても、キリスト教が急速に広まって行きました。ところが、「キリスト教の要の教え」の「主イエス・キリスト様の十字架と復活の福音」の教えを理解できない人々は、キリスト教とその指導者を「疫病のような人間」「まるでペストのような存在」と言って、得体のしれない「疫病、伝染病」扱いしたのでした。

 しかし、その「キリスト教」が約340年後には、「疫病」という汚名を返上してローマ帝国の「国教」になりました。その理由はいろいろありますが、素朴な理由の一つはこの300年の内にキリスト教が、得体のしれない「疫病」のようなものではなく、「愛の宗教」、「人を傷つける過激な宗教ではなく、人々を傷つけないで、人々を愛して生かす宗教」として行動したからではないかと思います(ヨハネ福音書13章34節~35節、ヘブル書10章24節)。

 多くの人々は「福音は、なかなか分からい」。「でも、愛は分かる」のです。それはどの時代でも同じです。「兄弟姉妹が愛し合」い、「愛と善行」が行なわれる時、「福音」が分からない人々にも、その素晴らしさが自ずと伝わっていくのです。ご家族、ご親戚、知人・友人に、まず「愛の業」から始めてまいりましょう。

 さて、テルトロの「論告」は続きますが、その内容は「事実誤認」ばかりでした。続いて、パウロが、当時の裁判での答弁で行なわれていた裁判長への挨拶と、「弁護人テルトロの論告」(使徒24章6~9節)が「事実誤認である」(24章10節~13節)と答えた後、「ナザレ人らの異端」と呼ばれる「疫病、伝染病」のように急激に広まったキリスト教とは、「いったい、どんなものか?」を堂々と述べています(24章14~16節)。

第一に、パウロの宣べ伝える、急激に広まった「キリスト教」とは、「わたしは、彼らが(ナザレ人らの異端)異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え」(24章14節、5節後半参照)とあります。主イエス様がナザレ村で育たれたので、主を信じて天の父なる神様に仕えて礼拝してるキリスト教徒を「ナザレ人ら」と呼びました。一方、ユダヤ人は「律法を守って、自分の正しさ」によって神様に近づき、礼拝していました。しかしそれは「独りよがりの、神様に喜ばれない不完全な礼拝」でした。一方、「ナザレ人(びと)らの異端」と呼ばれる「キリスト教」は、一切の罪を赦して下さる「主イエス様の十字架の血潮、御宝血」に依り頼んで、主イエス様によって神様に近づき、神様に受け入れられて礼拝しました(ヨハネ福音書14章6節)。

 第二の事は、「律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ」(24章14節後半)とあります。「律法の教え…預言者の書」は「聖書」のことです。2千年前のパウロの時代から現代に至るまで「聖書をことごとく信じる聖書信仰」が私達の「キリスト教信仰」です。

第三は、「復活信仰」です。「正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いで いだいている」(使徒24章15節)とあります。その「正しい者」の復活の「初穂(最初の部分)」として、主イエス様が「十字架で死なれた、三日目の日曜日の朝に復活された」のでした。Ⅱコリント書には「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである 」(Ⅰコリント書15章20節)とあります。私達は、主イエス様の復活に続いて「永遠の命」によみがえり、主の許に挙げられます。しかし「自分は正しい」と思い込んで救い主イエス様を信じなかった人は、    「永遠の裁きを受けるために復活する」のです(ヨハネ福音書5章28、29節、ヨハネ黙示録20章12、13節)。

最後に、パウロは「神に対し、また人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています」(使徒24章16節)と宣言して、「キリスト教」についての答弁を締め括っています。以前の礼拝時に、「キリスト教信仰」において「良心」が私達クリスチャンとってどれだけ大切かをお話ししました(Ⅰテモテ書1章18節の後半~20節)。信仰生涯にとって「良心」の働きは大切です(10月10日聖日礼拝説教、関西聖書神学校の後輩牧師の証)。私達も、「良心に責められることのない信仰生涯」を歩みましょう。また「良心の痛むこと」がありますなら、「神様、ごめんなさい。お詫びします。その罪を主イエス様の血潮で清めて下さい」とお祈りましょう。その時、神様の前にも関係者の心の中からも「その罪は、消えて真っ白にされる」(イザヤ書1章18節参照)のです。
                       2023年11月12日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎