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2023年9月24日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所  使徒行伝22章22節~30節     


  「不正(この世)の富・立場・特権・才能を用いて」

「千卒長は パウロを兵営に引き入れるように命じ、どういうわけで、彼に対してこんなにわめき立てているのかを確かめるため、彼をむちの拷問にかけて、取り調べるように言いわたした。彼らがむちを当てるため、彼を縛りつけていた時、パウロはそばに立っている百卒長に言った、『ローマの市民たる者を、裁判にかけもしないで、むち打ってよいのか』。」
(使徒行伝22章24,25節)

「よく聞いておきなさい。この世の富を正しく使って、自分のために信仰の友を作ることです。そうすれば、この世の生を終えた時、あなたがたは、永遠の住いで、その友達と一緒に過すことができるでしょう。」 
(ルカ福音書16章9節
[現代訳]

「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。 」         
(ルカ福音書16章10,11節)


 回心後のパウロは自分の「成功体験」ではなく、主なる神様の御言葉の「行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわす」との語り掛けで異邦人伝道に遣わされまた(使徒22章21節)。ところが、彼が群衆の前で「異邦人に遣わされる」ことを話した途端、集まっていた群衆が再び騒ぎ出したのでした(22章22節、23節)。彼らは「声を張りあげ、わめき立てて、空中に上着を投げ、ちりをまき散ら」したのです。それほどに「異邦人に対するアレルギー」がありました。ユダヤ人からすると、異邦人というユダヤ人以外の外国人については、「蔑まれ」、「疎まれ」、「嫌悪される存在」でした(エペソ書2章12節)。

 一方、民衆の暴動を一番に恐れていた千卒長は「騒乱」の原因を知り鎮圧したく思って、「騒乱」の張本人のパウロを「むち打ちの拷問」により、自白を強要しようとしたのでした(22章24節)。聖書学者は「この鞭による拷問を受けると、実際には多くの者が死んでしまうか、死なないまでも一生ひどい障害が残って普通の生活が出来なくなる」と言われます。

 ですから、まさに生命を失うか普通の生活が出来ない「ひどい障害」を負う拷問のむち打が始まるその直前に、使徒パウロは「ローマの市民たる者を、裁判にかけもしないで、むち打ってよいのか」と拷問をしようとする百卒長に言ったのでした(22章25節)。これを聞いた百卒長は、びっくりして千卒長のところに飛んで行き報告しました。

 当時、軍人を始め民間人であっても「ローマ帝国」に対して大きな貢献をした者には「ローマ市民権」が与えられたのでした。パウロは、彼の父親がその「市民権」を持っていて、その子どもとして「生まれながらのローマ市民」でした。一方、千卒長は「多額の金で買い取っ」て「市民権」を得るほどで、「ローマ市民権」には値打ちがあり(22章28節)、むち打ちなどの拷問を免れ守られることが保証されていました。この告白で状況は一変しまた。パウロは、ローマ帝国の市民権で完全に守られることになったのでした(22章28節)。

 しかし、パウロのこの要領の良さが「鼻につく」かもしれません。主イエス様だったらローマ市民権など持たれていないし、総督ピラトの出した判決に黙々と従い「鞭打たれ」「ゴルゴダ丘の十字架の死」を目指して進まれしたので、パウロはその「主のお弟子に似つかわしくない」と考える方もあるでしょう。

 そのような「使徒パウロの姿」を考える時、この世のど真ん中に生きる私達にとって、大事な「主の御言葉」があります。「ルカ福音書16章」にある主の御言葉に「またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれる (同書16章9節)とあります。「え、こんなこと、主イエス様がおっしゃるの?」と思われる方もあるのではと思いますが、聖書学者は、この「不正の富」の「不正」というのは、道徳的な「不正」倫理上の「不正」ではなく、「この世の」の意味だと言われます。主イエス様は、永遠に続かない「この世の富」を「不正の富」と言われたのです。

 ですから、誰にも分かり易く翻訳してる「現代訳聖書」では、「よく聞いておきなさい。この世の富を正しく使って、自分のために信仰の友を作ることです。そうすれば、この世の生を終えた時、あなたがたは、永遠の住いで、その友達と一緒に過すことができるでしょう。」(ルカ福音書16章9節[現代訳])とあります。私達が、主が「不正の富」と呼ばれる「この世の富」を「正しく用い」るなら、「信仰の友を作り、永遠の住まいで、その友と一緒に過ごせる」のです。続く「16章10、11節」も「この世において神様から任されたものを忠実に管理する人は、神の国の事にも忠実であり、この世において神様から任されたものを不忠実に管理する人は、神の国の事にも不忠実です。ですから、あなたがたがこの世において神様から任された富を忠実に管理しなければ、どうしてあなたがたは本当の富を神様から任されるでしょうか。」(同書16章10、11節[現代訳])と言われます。

 私達は、「この世の富」を与えてくださった神様のために、それを「正しく用い、忠実に管理しなければ」なりません。今、私達が与えられている「この世の富」「この世の立場、特権」「この世の才能」等を、主なる神様のために、正しく用いていきましょう。その時、主なる神様はあなたの「永遠にかかわる本当の富」を与えてくださるのです。

 「新改訳聖書」と「詳訳聖書」や「新アメリカ標準訳聖書」等は、アメリカのカリフォルニア州で広大な土地で柑橘類(オレンジやグレープフルーツ)を栽培する大農場を経営されていたロックマンさん夫妻が、その農地の4分の3を捧げて下さったので、これらの「聖書の翻訳事業」が進められました。ロックマンご夫妻は、「この世の富(柑橘類の栽培農園)」を神様に捧げて、多くの人の信仰を正しく導く、アメリカと日本の「福音派教会」の聖書翻訳事業に尽くしてくださり多くの「信仰の友」を作られました。

 話を、千卒長の前の「使徒パウロ」のことに戻しましますが、彼は父親から受け継いだ、「この世の立場と特権」であります「ローマ市民権」を用いて、死に至るか普通の生活が出来ない大きな障害を身に受ける「拷問のむち」を回避しました。それは、「自分の身、かわいさ」の回避行動というよりも、神様から与えられた大切な使命「ローマの都までの伝道旅行」「当時の世界の最高権力者のローマ皇帝カイザルの前での福音宣教」の使命を果たすために、「この世の特権」である「ローマ市民権」を用いたのでした。

 現代の私達にも、主なる神様から、「この世の富」「この世の立場と特権」「この世の才能」を与えられています。しかし、それは、「この世」でしか用いることが出来ない「不正の富と特権と才能」です。それを「主なる神様のために用いて頂くなら」「そうすれば、この世の生を終えた時、あなたがたは、永遠の住いで、その友達と一緒に過すことができる」(ルカ福音書16章9節)のです。

           2023年9月24日() 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎