聖書箇所 使徒行伝22章12節~21節
「これは道だ、これに歩め」
「あなたのみ言葉は わが足の ともしび、わが道の光です。」
(詩篇119篇105節)
「あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」
(Ⅰコリント書6章11節)
「また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く。」
(イザヤ書30章21節)
パウロは、復活の主イエス様と出会って、まばゆく輝く「近づきがたい光」(Ⅰテモテ書6章16節)で目が見えなくなり、連れの者たちに手を引かれてダマスコの町に入りました(使徒22章11節)。そこに、ユダヤ人で人々から良い評判を得ていたアナニヤが遣わされてきて、パウロの目の癒しのためにお祈りしました(22節12、13節)。「使徒行伝9章」では、「するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした」(使徒9章18,19節)とあります。
一方、アナニヤにとっては、パウロに出会うのは怖かったはずです。エルサレムでキリスト教会を迫害して名を馳せていたパウロですから、「目が見えないのは嘘で、罠かもしれない」と思ったに違いありません。彼は、即座にパウロと会うことを躊躇しました。しかし、アナニヤは、主の御言葉に従って、パウロに出会って、彼を洗礼に導きました(9章の10節~19節)。
現代の私達も、「この世」で生きている者として、「何が、本当か」分かりにくい事が多いと思いますが、まず「神様、導いて下さい」と祈って、主の御言葉に聞くことが大切です。前回も申しましたが、詩篇の記者の告白のように「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119篇105節)とあります。御言葉こそ、私達が信頼できる「わが道の光」です。
更に、アナニヤは、目が見えるようになったパウロの「将来の使命」について語りました。「かの義人」とは「復活された主イエス様」であり、パウロが復活された主イエス様が彼に現れて語られた事実を人々に証しする「証人」になるように導かれたのでした(22章14節、15節)。
前回も申しましたが、「主イエス様が復活された」ことは、「キリスト教信仰の土台」です。この「主イエス様の復活」という事実がなければ、主イエス様が十字架に架かって死なれ、「御宝血」を流してくださっても、「善良で清い一人の人間の死」にしかならず、私達の罪の赦しはありません。主が復活されたことにより、「公に神の御子」(ローマ書1章4節[新改訳])であると定められたので、イエス様を救い主と信じる者の一切の罪が赦されたのです。
この主イエス様の復活を確かなものと「証する」ために、ペテロやヨハネなどの12弟子が「使徒」として召し出されました。そして、「月足らずの者」(Ⅰコリント書15章8節)と自分を呼ぶ使徒パウロも、主イエス様の復活の証人として、全ての罪が赦される十字架の贖いを宣べ伝えたのでした。
現代の私達も、この主イエス様が「復活されたからこそ」、罪が赦されて永遠の生命が与えられているのです。ですから主の復活された日曜日の「主の日」の礼拝を尊んで、お捧げいただきたく願います。
さて、このアナニヤの導きで、パウロは神様からの「使命」を知しり、アナニヤから洗礼の恵みに与ったのでした(22章16節)。ここで「み名(御名)」というは「主イエス様のお名前」「主の聖名」です。この「み名(御名)」によるバプテスマで、パウロは、今まで教会を迫害してクリスチャンを傷つけ、殺めた数々の恐ろしい罪の一切を「洗い落させていただきた」のでした。パウロにとっては、どれほどの幸いだったでしょうか。
後にパウロが記した「コリント人への第一の手紙」にも「あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされた」(Ⅰコリント書6章11節)とあります。私たちも、主イエス様の聖名で「洗われ、きよめられ、義とされた」のです。
さて、アナニヤから洗礼を授けていただいたパウロは、すぐにダマスコの町で「イエス様は、復活された神の子キリスト(救い主)です」と伝道を始めました。そして、3年程経った頃、迫害の激しくなったダマスコの町からエルサレムに帰って、バルナバの執り成しによって教会に受け入れられ伝道に励んだのでした(使徒9章20節~28節)。
とことが、エルサレムの宮で祈っている時、主なる神様が「急いで、すぐにエルサレムを出て行きなさい。わたしについてのあなたの証しを、人々が受けいれないから」(22章18節)と語られました。
パウロは、この「主の御言葉」に反発したようです。ある聖書学者は「彼は初め 主イエスの命令に従おうと思わなかったようである。彼は異議を唱えた」と言われます。
パウロは以前、教会迫害者して好き勝手をして、多くのクリスチャンを痛めつけ、殺めることまでしました。でも、主イエス様が、その罪の一切を赦して下さって、今に至っているので、今、教会を迫害しているユダヤ人も真理を知って救われ、パウロのように救われると思ってエルサレムの都で伝道したのでしょう。でも、パウロのその「成功体験」を、主なる神様は否定され、「行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ」とおっしゃったのでした(使徒22章21節)。
私達も、その生涯に幾つもの「恵まれた体験」があると思います。しかし、その「恵まれた体験」以上に「今、語られる主の御言葉」が大切です。今までの数々の「恵まれた体験」は私達の信仰を強めます。 しかし、それは「今、語られる主の御言葉」に優先することはありません。「以前、うまくいったから、今度も上手く行く」ことはありません、「今、語られる主の御言葉」そこ、私達を正しく、祝福の道に導くものなのです。
私達にとって「成功体験」は、次の「成功」を約束するものではありません。「恵まれた体験」「成功体験」に勝る「主の御言葉の語りかけ」に聞き従って参りましょう。「イザヤ書30章」の有名な御言葉に「また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く。」(イザヤ書30章21節)とあります。主の御言葉に聞き従う時、正しく歩み、祝福が備えられるのです。
2023年9月17日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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