聖書箇所 使徒行伝22章1節~11節
光の中におられる主に従う歩み
「聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである」
(ローマ書1章4節)
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは
御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネ福音書3章16節)
「旅をつづけてダマスコの近くにきた時に、真昼ごろ、突然、つよい光が天からわたしをめぐり照した。」
(使徒行伝22章6節)
「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」
(Ⅰヨハネ書1章7節)
「あなたのみ言葉は わが足の
ともしび、わが道の光です。」
(詩篇119篇105節)
パウロは、自分をユダヤ人の暴徒から救い出してくれたローマ軍の千卒長に向かって「ギリシャ語」で「ひと言あなたにお話してもよろしいですか」と話しかけました。その時、千卒長は、パウロが話した「洗練された教養あるギリシャ語」にびっくりして、重大な犯罪の容疑者であるはずのパウロに対して「復活された主イエス様の証」(使徒22章以降)を話すのを許可したのでした(21章37節~40節) 。
パウロは、まず初めに、騒動に集まってきた多くのユダヤの群衆と共通の立場であることを分かってもらうために、「兄弟たち、父たちよ」と語り、「自分たちは同じユダヤ人」であることを示しました。その上に群衆が普段使う「ヘブル語」で語り掛けました。すると、つい先程までパウロを打ち叩いていた民衆が パウロの「ヘブル語の挨拶」を聞いて、ますます静粛になりました(22章1,2節)。
そこでパウロは、まず自己紹介から始めました(22章3節~5節)。ここで、パウロは現在のトルコの国の中南部にあります「タルソ」の町に生まれ、このエルサレムの都で育ち、当時の第一級の律法学者で最高法院のサンヘドリンの議員でもあり、人々から尊敬されていたガマリエルの許で、その門下生として「先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、
今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者」(22章3節)だったと告白したのでした。
その上、彼は「この道(キリスト教)」とキリスト教会の人々を「男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた」のでした(22章4、5節)。更に、ダマスコという外国の町まで行って、キリスト教会を迫害したのでした。まさに、パウロは律法を徹底的に守り、人々にも強要する「ユダヤ人の中のユダヤ人」だったのです。
ところが、そのパウロも一つだけ群衆と「違うこと」がありました。それは25、6年前にエルサレムのゴルゴタの丘で十字架に付けられて犯罪人として死んだイエスという方が、死人の中から復活され、パウロと出会われたという「この一点」で群衆と異なっていました(22章6節~9節)。
あの「呪われた者が付けられる十字架」に付けられて、「ナザレ人(びと)イエス」は確かに死なれました。その「死なれたこと」を確かめるためにローマ兵が槍で脇腹を突き刺し、それが心臓に達して血潮が流されました(ヨハネ福音書19章34節)。
その時に流れ出た主イエス様の血潮を、私達は柘植先生以来「御宝血(宝の血)」と呼んで崇めて参りました。この「御宝血」こそ、「ヨハネの第一の手紙1章7節」に「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」とあります様に、私達の「全ての罪」を清めるのです。
そのように心臓を槍で突き刺されて亡くなられたナザレのイエス様が、何んとパウロの前に現れ「わたしは、あなたが迫害しているナザレ人(びと)イエスである」と宣言されました。この時パウロは、復活された主イエス・キリスト様と出会ったのでした。この事実が、「ユダヤ人の中のユダヤ人」であったパウロを、「キリスト教徒(クリスチャン)」にする「原点」となりました。
もし、ナザレのイエス様が復活されなかったら、イエス様が罪の一つもない「完全に正しい人」であったとしても、十字架の死は「強盗のバラバ一人の代わり」で十字架刑にされたことになります(マルコ福音書15章15節)。しかし主イエス様が日曜日の朝に復活されたので、全ての人の罪を償う「神の子(神の独り子)」であることが明らかにされたのです(ローマ書1章4節)。
「同志社」を創設した新島譲も、また柘植先生も「新約聖書の富士山(新約聖書の最高峰)」と言われた「ヨハネ福音書3章16節」の有名な御言葉に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは
御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(同書3章16節)とあります。その中の「ひとり子(御子)」とは、十字架に架かって死なれ、三日目の日曜日の朝に復活された主イエス様のことです。それで、私達は旧約聖書の「十戒」に定められています「土曜日の聖日」ではなく、主イエス様の復活された「日曜日の朝」に、主を礼拝するために集まっているのです。
話を今日の聖書箇所に戻しますが「ユダヤ人の中のユダヤ人」であったパウロは、目の前の群衆と違う「唯一の点」として、「復活された主イエスと出会った」ということを主張したのでした。現代の私達も、「死人の中から復活された」と聖書が証しする主イエス・キリスト様を救い主として信じて、永遠の祝福(永遠の命)に与っています(ヨハネ福音書3章16節)。
最後に、「使徒行伝22章6節」に「つよい光が天からわたし(パウロ)をめぐり照した」とあります。この「つよい光」について、パウロ自ら書いた「テモテへの第一の手紙」で、「神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。」(同書6章16節)と記しています。
私達が信じ礼拝している主なる神様は「近づきがたい光の中に住」む御方です。ですから「ヨハネの第一の手紙」には「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」(Ⅰヨハネ書1章7節)とあります。
パウロが体験したように「主なる神様が光の中におられる」のですから、私達も「光の中を歩」きましょう。その「光」とは、主なる神様が与えてくださる「御言葉の光」(詩篇119篇105節)です。
この聖書の「御言葉の光」の中を歩くなら「わたしたちは互に交わりをもち」、主にある兄弟姉妹の間の「聖徒の交わり」を持って行きます。その時、「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」のです。山手教会で受け継がれて来た「御宝血(主イエス様の血潮)」への信仰は、御言葉の光に導かれつつ、主にある兄弟姉妹の交わりに与る中で、「すべての罪からわたしたちをきよめる」という最も大いなる恵みに至らせます。「御言葉の光」に従い、「御宝血」の恵みに豊かに与りましょう。
2023年9月3日(日) 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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