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2023年5月28日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所   ヨハネ福音書14章13節~17節     

「聖霊とは、どんな御方か?」


「しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。」
(ヨハネ福音書16章7節)

 御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる」   
(ローマ書8章26節)

神の聖霊を悲しませてはいけない。」            
(エペソ書4章30節)

主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」     
(Ⅱコリント章13章13節)

  

 今日の聖書箇所は、主イエス様が十字架に架かられる前夜の、お弟子たちへの「お別れの説教(告別説教)」(ヨハネ福音書13章~17章)で、「主イエスの御名」による祈りについての教え(14章13節、14節)と、「助け主」と呼ばれる「真理の御霊(聖霊)」(14章16節、17節)の教えの箇所です。

 ここで「別の助け主」とありますのは、主イエス様が「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。」(ヨハネ福音書16章7節)と言われたように、最初から主イエス様の代わりに来て下さる御方として「助け主(聖霊)」が控えておられたのです。その「聖霊」が、五旬節の日に120名ほどのお弟子達に降られ、お弟子達は「聖霊」に満たされました。また、この「聖霊」は、自らが罪深い者であることを知って主イエス様を信じてバプテスマを受けた全ての人に降られています(使徒2章38節)。  

 今日は、私達の内に住んでおられて親しく交わっていて下さる「聖霊」について考えます。今日の週報に挟み込んでいますプリントの「聖霊とは、どんな御方か?」をご覧ください。

 「【1】聖霊は、御方様(ペルソナ[位格]、「It」ではなく「He)である。」とあります。聖書は、「聖霊」が「それ、It」と呼ばれる「力」というよりも、「ヨハネ福音書14章17節[共同訳聖書]」のように、「知性、感情、意志のある御方様、その方(He)」として記しています。聖書は、最初に書かれた「原典」において間違いがないのですが、「原典」を書き写す時に間違い、翻訳する時も間違うことがあります。

 では、その【知性、感情、意思】という「心」を待った御方である「聖霊」は何をなさるのでしょうか。

 【聖霊から人に対して】「➀御霊は語られます(黙示録2章7節)」現代は聖書の言葉から「聖霊」が私達に語られます。ですから「聖霊様、御言葉からお語り下さい」とお祈りして聖書を読みましょう。 「②御霊はとりなされる(ローマ書8章26節)」。私達失望や汚れを覚え祈れない時、「聖霊」が「言葉にあらわせない切なるうめき」(ローマ書8章26)をもって執成されます。「③御霊はあかしされる(ヨハネ福音書15章26節)」「聖霊」は主イエス・キリスト様を明らかに証してくださいます。「④御霊は導かれる(ローマ書8章14節、ヨハネ福音書16章13節)」私達は、時々刻々「聖霊様」によって導かれています。「⑤御霊は命令される(使徒16章6、7節)」。間違ったことをした時は強制的に止められます。それは幸いな事です。「⑥御霊は任命される(使徒20章28節)」。牧師は「聖霊」が教会に立てて任命されます。

 【人から聖霊に対して】「心」をお持ちの「聖霊様」に対して私達が行うことです。「⑦御霊は欺かれなさる(使徒5章3節)」「⑧御霊は侮られなさる(ヘブル書10章29節)」「⑨御霊は冒瀆されなさる(マタイ福音書12章31,32節)」「⑩聖霊は悲しまれる(エペソ書4章30節)」私達の内に住んでおられる「聖霊」を悲しませると、私達が祝福を失います。「聖霊」が悲しんでおられると思ったら、すぐ「ごめんなさい」と悔い改め方向転換してください。

 続いて「【2】聖霊は、神性をもった御方 … 神様である。」です。聖書は一貫して、聖霊が「神ご自身」だと明白に記しています。「①御霊は永遠におられる(御霊の存在しなかった時はなかった、ヘブル書9章14節)」「永遠」とは神様のみの性質です。「②御霊は全能でいらしゃる(ルカ福音書1章35節)」「聖霊」は奇跡をおこなわれる神様のなさる御業を行われます。「③御霊は同時にどこにでも臨在される(すなわち遍在、詩篇139篇7節)」「④御霊はすべてを知っておられる(すなわち全知、Ⅰコリント書2章10節)」「⑤御霊は神と呼ばれている(使徒5章3,4節)」「聖霊」は、神様の性質をもっておられる「神様」です。

 最後に、「【3】聖霊は、三位一体の主なる神様である。」と言うのもキリスト教の教えの中で最も大切な教えです。この教えを認めないとキリスト教ではありません。オーソドックス(正統的)な「祈り」とは、「父なる神に、御子を通して、御霊の力によって祈る」祈りです。聖書は旧約と新約の両方で、「三位一体」の真実性を確かに教えています。その主要な箇所は聖書の創世記の最初から始まります。

 【旧約聖書】「①聖書の第一頁から始まる『三位一体』の教え(創世記1章1節)」この「創世記1章1節」の「神」は複数形が使われて、「創造された」は「三人称単数の動詞」です。複数の神様なのに単数の動詞で「天地万物を造られた」とあります。イギリスの「マーシュ・ヘンリー」と言う聖書学者は、ここに「神様が『お三方』でありながら『お一方』である」という「三位一体の神」が啓示されているとしています。更に、「創世記」は、「②ご自分を『われわれ』と呼ばれる主なる神様(創世記1章26節、3章22節)」とあり、「イザヤ書」にも「③ご自分を『われわれ』と呼ばれる主なる神様(イザヤ書6章8節)」とあります。このように旧約聖書にも「三位一体の神様」の事が「おぼろげに」記されています。     

 【新約聖書】新約聖書での「三位一体の教理」は、旧約のものよりはるかに発展した形になります。①「父と子と聖霊との名によって」(主イエス様の大宣教命令、マタイ福音書28章19~20節)。②「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わり」(使徒パウロによる祝祷、Ⅱコリント章13章13節)などがあります。

 ビリー・グラハムによれば、父なる神様からの「祝福」は「御子である主イエス・キリスト様」を通して来ますが、その「祝福」は主イエス様を「罪からの救い主、自分の生涯の主人」として信じ、洗礼(バプテスマ)を受けた方の内に住んでいて下さる「聖霊の神様」によって与えられると言います。この「聖霊」を尊び、悲しませるようなことのないように歩みましょう。

           2023年5月28日() 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎