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2023年3月26日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所  使徒行伝17章22節~34節   


 「求めれば見いだせる真の神様」
 

「神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。 
(使徒17章25節後半~27節)

「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 
(ヨハネ福音書3章17節、18節)

 

 パウロが心の「憤り(激しい怒り)」に突き動かされて、伝道予定のなかったアテネの町で伝道し始めたのは、「人々が、真の神様に生かされ、愛され、育まれていながら、愚かな生命のない偶像に頭を下げて拝んでいた」からです(使徒17章16節)。パウロは、アテネの町中で多くの人々の行き交う有名な「広場(アゴラ)」において、偶像礼拝の愚かさ(Ⅰコリント書8章4節、10章19節、20節)を諭して、「毎日そこで出会う人々を相手に」街頭伝道(路傍伝道)をしました(使徒17章17節)。 

 また、「幸福と快楽を追求することが人生の目的と考える」エピクロス派と「快楽への欲望を抑制して、自然や理性と調和して生きようとした」ストア派の哲学者とも議論しました(17章18節)。彼らアテネの町の上流階級の人々については、「いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである。」(使徒行伝17章21節)とあります。新しもの好きの彼らは、パウロの語っています「主イエス様と復活」という耳新しい教えを聞こうと、彼を「アレオパゴスの評議所」に連れて行って、その話を聞いたのでした。

 パウロはこの時、先程のエピクロス派とストア派の哲学者を含めてアテネの上流階級の人々に「あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。」(17章22節)と語って、彼らの「宗教的な関心」を引き合いにし、相手のアテネの人々を「自分の土俵(宗教的な話題)」に引き入れたのでした。

 特にパウロがここで取り上げたのは、当時3000にも及ぶ宗教施設があるアテネの町の中で「知られない神に」(17章23節)と刻まれた祭壇でした。彼がそれを見つけたことから、真の神様についてのメッセージを展開しました。その内容は⑴天地万物を造られた「創造主である神様」、⑵すべてを治めておられる「支配者である神様」、⑶「裁き主の神様」の三つでした。

 まず、真の神様は「世界とその中にあるすべてのものをお造りになった」天地の創造主なる神様です(17章24節)。アクロポリスの丘の上で偉容を誇って建っている「パルテノン神殿」であっても 、創造主の真の神様をそのような人間の造った神殿の中に閉じ込めることは出来ず、人々に仕えられる必要もありません。神様は、私たちに「いのちと息と万物」とを与えて下さっている御方です(17章25節)。また、アテネの町にある神々は人間の想像を基に造った産物ですが、「人間が造った神様」ではなく「人間を造った神様」が真の神様で、一人の人アダムからあらゆる民族を造り出されたのです(17章26節前半)。

 私は、19歳の時に教会に初めて行ったのですが、その時に旧約聖書の創世記の「はじめに神は天と地とを創造された (創世記1章1)を読み、神様がこの世を造られたのだと知りました。同志社の創立者の新島襄も中国語聖書の創世記の御言葉から「なるほど、この世界のあらゆるものは、これを造った神様がいなくては出来ないはずだ。机は大工がつくったものだ。その机を作った大工が用いた材木も、けっして人間が造ったものではない。すると、この書物にあるとおり、この世には真の神様というものがいて、この天地万物をつくり、ご支配しておられるに違いない」と、この世界と宇宙は神様が造られたのだと知り、アメリカ合衆国へ密航して23歳で救い主イエス様を信じて受洗しました。「はじめに神は天と地とを創造された 」との御言葉は、新島襄を始め、私達信仰者の「原点」であり、全ての人々の「出発点」です。

 第二は、「全てを治めておられる支配者である神様」についてパウロが語っています。神様は「地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さった」のです(17章26節後半)。その目的は、「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」ことであり(17章27節前半)、「事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない」のです(17章27節後半)。

 私も滋賀県の片田舎の浄土真宗本願寺派の末寺の門徒の家庭の長男して生まれましたが、思春期に自分の愚かさ弱さに打ちひしがれ、これではいけないと「救い」を求めた時、NHKの教育テレビで「クラークの系譜」という番組でキリスト教に関心をもち、その後、清和キリスト教会に導かれました。

 「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」のですし(17章28節)、「われわれは神の子孫なのである」とありますので、神様を「人間の技巧や空想で金や銀や石など」で作った偶像と「同じと、見なすべきではない」とパウロは訴えたのでした(使徒17章28節、29節)。それは、私達人間を造って生命を与えておられる神様を悲しませることだからです。

 主なる神様は、全ての人が救われるように願がっておられ、「子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい」(Ⅰヨハネ5章21節)と、木や石や鉄で作った命のない偶像の神々を避け、それから離れて「わたしのもとに帰ってきなさい」と迫っておられるのです。そのために、全ての人々の救い主「主イエス様」をこの世に送って下さいました(ヨハネ福音書3章16節)。「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」(ヨハネ福音書3章17節、18節)とあります。御子イエス様を、「真の神、真の救い主」と信じるだけで、どなたも救われますが、信じなければ、既に裁かれて、この世の終わり(終末)には「裁き」が確定してしまいます(使徒17章30節~31節)。

 ただ、「御子イエス様を、真の神様であり救い主と信じるか」それとも「背後に悪霊が働くこの世の偶像に走るか」、その一事で私達の永遠が決まります。私達は「主イエス様」を「真の神様、救い主」としっかり信じで参りましょう。      

               2023年3月26日(日) 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎