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2023年3月5日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所 使徒行伝17章10節~15節      

     「素直で、熱心に、反芻して御言葉を受け入れる」


兄弟たちよ。わたしたちは、しばらくの間、あなたがたから引き離されていたので…なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に こいねがった。
(Ⅰテサロニケ2章17節)

「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」 
(エペソ618節)

「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々 聖書を 調べていた 
(使徒17章11節)

「へびのように  賢く、はとのように 素直であれ。」    
(マタイ福音書10章16節)

   

 パウロとシラスたちは、テサロニケでの伝道で迫害に遭い、入信したての「兄弟たち」によって「夜の間にベレヤに送り出」されました(17節の前半)。この時、パウロたちは、「ほうほうの体」でテサロニケの町を出て行ったので「なんという町だ、もう関係ない」と思ったかと言いますと、そうではありません。彼らは「何んとしても留まりたい。でも、限界だ」と言うことで「後ろ髪をひかれる」ようにテサロニケの町を後にしたのでした。

 後に、パウロはテサロニケの教会に「わたしたちは、しばらくの間、あなたがたから引き離されていたので――心においてではなく、からだだけではあるが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切にこいねがった」(Ⅰテサロニケ2章17節、18節)と記しています。これが、パウロや牧師たちの心からの叫びです。ルカ福音書15章」で「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは 捜し歩かないであろうか」(同15章4節)とありますのは、主イエス様と牧会者の心の内を言い当てた御言葉です。大丈夫な99匹は取り敢えず置いておいて、迷子になった一匹のことが心に掛かり「何んとか、帰ってきてほしい」と思うのは、牧会者の心からの願いであり祈りです。

 「信仰生活は、即ち教会生活」であり「教会の外(ほか)に救いなし」とは、古くから言われる「信仰の世界の真理」です。牧会者にとっては、「教会を離れておられる方々」「お顔の見えない方々」のために自然と「祈りの言葉」が心に溢れます(エペソ6章18節)。それが私達の教会です。

 「ベレヤの町」はテサロニケの町から約80キロ西の所にあった「活気のある町」で、ユダヤ人も大勢住んでいましたので、「ユダヤ教の会堂」がありました(17章10節後半)。そこで、パウロたちはベレヤに着くとすぐに会堂に入って、いつものように「聖書に基づいて」イエス様が、ユダヤ人が待ち望んだ救い主キリストであることを説き明かしたと思われます。

 このベウラの町のユダヤ人たちは、パウロが「聖書に基づいて」語った福音に対する反応が、        テサロニケのユダヤ人たちの反応よりはるかに良かったのです(17章11節、12節)。その理由には「三つの要囚」が考えられます。

 「第一」に、このベレヤの人たちは「素直であって」(17章11節前半)、自分の考え方を絶対視して他の考え方を受け入れようとしない「偏狭なユダヤ教のパリサイ派の人たち」とは正反対の心の態度で、神様からの真理に対して「心を開いた状態にあった」ことが暗示されています。こうした心は「信じやすい心」に通じます。この「素直」と言う言葉は、「へびのように賢く、はとのように 素直であれ。」の「素直」に通じます。この世の事には「賢く」対応しましょう。なぜなら、「この世は、本当のこと半分、嘘も半分」です。詐欺が横行し、ある国の国営放送のプロパガンダも嘘ばかりです。ですから「この世の事」は「へびのように  賢く」対応することが必要です。一方、「聖書の御言葉」は「はとのように素直」に受け止めましょう。御言葉に「素直」であることにこそ、信仰者の祝福となります。

 「第二」に「心から教えを受けいれ」(11節の中程)とあります。別の翻訳聖書では「非常に熱心に みことばを聞」く人たちとあります。パウロの語る御言葉を「非常に熱心に・・・聞いた」のでした。「ながらテレビ」「ながらラジオ」はOKですが、「ながら御言葉」はアウトです。御言葉を聞く時、集中して熱心に聞くことが大切です。その聞いた御言葉を「心から教えを受け入れ」ることも大切です。何故なら「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」(ローマ書10章17節)とあります通り、信仰はまず語られる御言葉を「心から、熱心に」聞くことから始まり、そこに豊かな実が結ばれるのです。

 「第三」は、その熱心が「毎日聖書を調べた」という姿勢に現れたことです。ベレヤの人々はみことばを「聞きっ放し」ではなく、「果たしてそのとおりかどうか…日々聖書を調べていた」のです(17章11節後半)。御言葉のメッセージを聞いたら「それで終わり」ではなく、もう一度、聖書に当たって調べたのです。「忙しい」現代の私達には大変です。お薦めは、毎週の聖日礼拝の午後4頃に教会HPにアップされるその日の説教要旨をご一読いただくことや、教会に来られる水曜日や日曜日の朝、週報BOXに入っています「説教要旨」を御一読いただければと願います。そのための「必要な時間」は、5分余りです。5分程早く来られて「説教要旨」を読んでいただくだけで祝福が違います。

 旧約聖書には、牛や羊などの「反芻(口で咀嚼して胃に送って、部分的に消化した後、再び口に戻して咀嚼)する動物」が主なる神様の捧げられる「聖い動物」とされているように、御言葉という「霊の食物」「霊の糧」「霊のご飯」を、一度聞くだけでなく毎週の説教要旨で、もう一度読んで信仰生活に生かされるなら必ず実を結びます。

 このように、聖書の御言葉からパウロたちの語った「主イエス様の救い」についてのメッセージを「素直に」・・「心ら・・・受けいれ」「果たしてそのとおりか・・・反芻して」しっかり受け止めたので、「多くのユダヤ人」と「多くのギリシヤの貴婦人や男子」が信じて救われたのでした(17章12節)。

 このように、ベレヤでの伝道は成功しましたが、約80km(神戸、京都間)も離れたテサロニケから彼らに反対するユダヤ人たちが「押しかけてきて、群衆を煽動して騒がせた」のでした(17章13,14節)。神様の「救いの御業」が行われると悪魔が「ちょかい」を出して来ます。

 この時、テサロニケのユダヤ人たちはパウロをターゲットにしていましたので、入信したばかりの「兄弟たち」が「ただちにパウロを送り出して、海べまで行かせ」、最終的にはベレヤから300km以上離れたアテネに連れていったのでした(17章14節前半、15節)。一方、シラスとテモテは、何とかベレヤの町に踏み留まり、誕生したばかりの教会のお世話をしたのでしょう(17章14節後半)

 私たちは、「素直に」「心ら…受けいれ」「果たしてそのとおりか…反芻して」聖書の御言葉を受け入れて実を結んだベレヤの人々に倣いましょう。

        2023年3月5日() 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎