聖書箇所 使徒行伝17章1節~9節
「万事聖霊、万事祈祷の生涯の祝福」
「パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、 『・・・イエスこそは、キリストである』
とのことを、説明もし論証もした。」
(使徒17章2,3節)
「私たちがあなたがたの所で福音を宣べ伝えた時、あなたがたがそれを受け入れたのは、ただ単に説得力のある言葉で語ったからではなく、聖霊の神が
力強い福音を、確信をもって語らせてくださったからである。」
(Ⅰテサロニケ1章5節[現代訳聖書])
「祈りて 倦まざるべし」
(エペソ書6章18節)
「万事聖霊、万事祈祷」「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」
(Ⅰコリント1章18節)
パプロとシラスたちは、「ピリピの教会」の兄弟姉妹と交わりをした後(使徒16章40節)、ローマ帝国の東西結ぶ「エグナティア街道」を通り、ピリピから南西に約160キロほど離れたマケドニヤ州の州都の「テサロニケ」に着きました。この町にはユダヤ人たちも大勢住んでおり、聖書が語られる「ユダヤ教の会堂」もありました(17章1節)。
パウロは「例によって」、ユダヤ会堂に入って行って「三つの安息日」にわたり、「聖書に基いて彼らと論じ」(17章2節)ました。日本基督教団の「信仰告白」では、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り・・・信仰と生活との誤りなき規範なり」とあり、「群」の「キリスト伝道隊」や福音派の教会の「信仰基準」には「聖書六十六巻は・・・信仰と生活のすべての面において、唯一の基準であり、最高の権威を有する」とあり、「聖書こそ信仰と生活の唯一の誤りなき規範、基準」ですので、パウロは聖書に基いて彼らと論じ、御言葉を語ったのでした。
そのパウロの説教は、⑴聖書は、救い主(「キリスト」)が必ず苦しみを受け死人の中からよみがえることを預言していること、⑵ベツレハムで生まれなさってナザレで育ちなさったイエス様について、苦難を受けてよみがえった方だと証し、⑶「私(パウロ)があなたがたに伝えているこのイエス様こそ、救い主(「キリスト」)」、すなわち「皆が、長く待ち望む救い主キリストなのだ」と「説明もし論証もした」のでした(17章3節)。その結果、「ある人たちは納得がいって、パウロとシラスにしたがった。その中には、信心深いギリシヤ人が多数あり、貴婦人たちも少なくなかった」(17章4節)のです。
パウロの伝道説教は単純で率直なものでしたが、多くの人々の心を捉えて主イエス様を信じさせ弟子たちに従う者としました。その「秘訣」は「テサロニケ人への第一手紙」で「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによった」(テサロニケ人への第一の手紙1章5節)とあります。「現代訳聖書」では「聖霊の神が力強い福音を、確信をもって語らせてくださった」(1章5節後半)と日本語として分かり易い翻訳をしています。ですから、「使徒行伝17章4節」の出来事の背後には、「聖霊のお働き」があり、テサロニケの人々が主イエス様の福音をしっかりと信じ救われたのでした。
この「聖霊(御霊)」こそ、聖書に基づく説教を理解させてくださる「御方」ですが、更に私達の信仰生涯に関わる「良きもの全て」を与えてくださる「御方」です。「関西聖書神学校」では、先輩より「万事聖霊、万事祈祷」と教えられました。信仰生活(生涯)の一切は「聖霊」によるので「万事聖霊」です。その「聖霊の働き」は「祈祷」によって豊かに与えられるので「万事祈祷」です。祈る時「聖霊」は豊に働き実を結ばせて下さいますが、祈りを怠るなら「聖霊」のお働きは消えていまします。「聖霊の恵み」を頂くために「祈りの生活」は不可欠です。
「霊の道筋、信仰の道筋」を教えている「福音讃美歌」の「163番の4節」には、「たえせず祈らば絶えずかち 祈りをやむれば負いくさ」とあります。祈れば「勝利」ですが、祈りをやめれば「負いくさ」で完全な敗北です。坊向久正先生も「祈りて倦まざるべし」(エペソ書6章18節[改訳聖書])の御言葉で、「祈る」ように勧められました。同様に祈る時、「聖霊」は豊に働き実を結ばせてくだいますが、祈りを怠るなら「聖霊」のお働きは消えてしまい、何の実もありません。「祈りて倦まざるべし」「万事聖霊、万事祈祷」こそ信仰生涯の「勝利の秘訣」です。
聖書学者によると、「三つの安息日にわたり」ユダヤ会堂に出入りした後(使徒17章2節)、パウロ達は自ら働いて生計を立て、ある程度の長さの期間このテサロニケに滞在して伝道したと考えています(Ⅰテサロニケ2章9節)。ところが、このテサロニケの町でも妬みに燃えたユダヤ人たちが、町の「ならず者(ごろつき)」を駆り集めて暴動を起し、パウロたちが滞在していた「ヤソン(ヨシュアという名前を持つユダヤ人のよく使うギリシャ語の名前)の家」を襲いました(使徒17章5節)。そこにパウロやシラスなど伝道者たちを見つけ出せなかったので、彼らは「ヤソンと兄弟たち数人(新しく信徒になった人々)」を引きずって行き、市の当局者に訴えたました(17章6~8節)。
この訴えの内容は「こじつけ」でしかないのですが、その中で当時のクリスチャンたちを「天下をかき回してきたこの人たち(別の翻訳「世界中を騒がせて来た者たち」)」と表現していますように、「主イエス様の十字架と復活の福音を信じた人々」の「変わり様」は、「世界中に影響を与えるほど力がある」働きだと評価していたのでした。
柘植不知人先生の恩師のバックトン先生の「秘書」をされていた米田豊 先生は、このことについて「信者がこのように訴えられるのは、力かあるからこそである。キリスト者はよい意味では、<天下をかき回す>者であるとも言える。元来キリスト教は「ダイナマイト」の宗教で、(聖)霊の力をもって・・・罪に沈滞している世を覚醒し、救済するために必要である」(『新約聖書講解』238頁)と記しておられます。
「コリント人への第一の手紙」にも「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」(同書1章18節)とあります。この「神の力」の「力」のギリシヤ語は「ダイナマイト」の語源となるもので「十字架の言葉」は「ダイナマイトの威力がある」との意味です。それ故、「十字架の福音」は全世界に伝わり、最新の統計では約23.8億人(世界人口の約31%)が「十字架の言葉」を信じるクリスチャンです。
その「ダイナマイト」のような「十字架の言葉」を信じたヤソンは(17章9節)、迫害にめげず「信仰者として成長」し、約7年後に記された「ローマ人への手紙」には、パウロから「同族の・・・ヤソン」(同書16章21節)と記されて、クリスチャンとしてしっかり立っていました。
諺に「雨降って、地固まる」とありますが、ヤソンの信仰は「迫害」で、かえってしっかりし成長しました。「迫害」など誰も歓迎しませんが、神様が敢えて許される時は「信仰が成長する時」です。万事を益と変えて下さる主なる神様を信じて参りましょう。
2023年2月26日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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