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2022年9月25日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所  使徒行伝13章14節~37節


  「主イエス様の復活と私達」      


「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、 この聖書(旧約聖書)は、わたしについてあかしをするものである。」
(ヨハネ福音書5章39節)

「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。 すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、3日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、12人に現れたことである。」
(Ⅰコリント15章3節~5節)

  「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」
(Ⅰコリント15章20節)


 パウロとバルナバは、若い伝道者ヨハネ・マルコの「挫折」がありましたが(使徒13章13節)、アンテオケ教会の人々に祈られ、「聖霊に送り出され」(使徒13章4節)た伝道旅行ですから前進し、パンフリヤの港町ペルガの北側の「タウロス山脈」を登り、海抜およそ千百メートルの「高原地帯」に到着して、「ピシデアのアンテオケ」の町に着きました(13章14節前半)。

 このアンテオケの町にもユダヤ人が住んでいましたので、彼らは、まず「安息日(にち)に会堂にはいって席に着」(13章14節後半)きました。「律法と預言者」の朗読があって後、「会堂司(かいどうづかさ:会堂を管理する人)」から奨励を勧められたので(13章15節)、パウロは「待ってました」とばかり、ギリシヤ風の雄弁家のスタイルをして、聴衆を静めて注意を引くため「立ち上がり、手を振りながら」話し始めました(使徒行伝13章14節~16節前半)。

 パウロたちは、自分達が「新入り」「新参者」と心得ていましたので、お互いの「共通の土台」であります、旧約聖書に記された「先祖のユダヤ人の歴史」を語り始め、「イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び」(13章17節)と、同じ先祖を持つお互いだと語り始め、「創世記」「出エジプト記」から「サムエル記上」までの歴史を簡潔に話しました。聴衆のユダヤ人は「共通の先祖」を持つパウロとバルナバの語ることに心を開いたのでした(13章16節~22節)。

 更に、パウロが「旧約聖書」からその「歴史」を語ったもう一つの大切な理由は、主イエス様が「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書(旧約聖書)は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネ福音書5章39節)と言われるように、旧約聖書の主題・テーマが「永遠の命」を与えてくださる「救い主イエス・キリスト」だからでした。

 彼は、その「主イエス様」をユダヤの人々に紹介した「先導役」の「洗礼者ヨハネ」について語りました(使徒13章24、25節)。当時、「自分の罪深さを自覚して、滅びから免れたい」と願って、多くのユダヤ人が全国から「洗礼者ヨハネ」のところに駆け付け、「罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマ」(ルカ福音書3章3節)を受け、リバイバルが起こっていました。それで、洗礼者ヨハネを旧約聖書に予告された「救い主キリスト」と勘違いする人が多くありましたので、ヨハネは、別の方が「救い主キリスト」として来られ、自分はその方「そのくつを脱がせてあげる値うちもない」と集まった人々に述べたのでした(使徒13章25節)。この出来事を踏まえて使徒パウロは、「ユダヤ会堂」に集まっている「ユダや人と主なる神様を敬う異邦人たち」に対して、旧約聖書に記されている「救の言葉」がどのように実現したかを続いて述べました。 

 パウロは「安息日ごとに読む預言書」の、特に「イザヤ書23章」に預言されています「救い主が、全ての人の犯した罪の償いのために、ほふり場にひかれて行く小羊のように、人々の罪のために打たれ、この地から断たれた」(イザヤ書23章7、8節参照)ように、何の罪もない主イエス様が十字架に架けられて人々の罪の償いとなって、殺され墓に葬られなさったと語ったのでした。

 その後、パウロは、「キリスト教の独壇場」であります「主イエス様の復活」について語りました。「イエスは、ガリラヤからエルサレムへ、一緒に上った人たち(ペテロやヤコブやヨハネなど主イエス様と約3年間、寝食を共にし、一緒に伝道旅行した弟子たち)に、幾日ものあいだ現れ、そして彼らは今や、人々に対してイエスの証人となっている」(使徒13章30、31節)と語りました。使徒パウロは、後に記した「コリント人への第一の手紙15章3節~9節」にも「主イエス様の復活」を力強く証しています。

 そして、この「主イエス様の復活」は、弟子たちの体験した出来事だというだけでなく、ユダヤ人たちが信じてやまない「旧約聖書」に記された預言の御言葉の成就でした(13章33節~37節)。

 その一つとして『あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ(別訳「あなたを子として立てた」)』は「詩篇2篇7節」であり、主イエス様が「キリスト」として復活されることを予告した御言葉でした(13章33節)。次の『わたしは、ダビデに約束した確かな聖なる祝福を、あなたがたに授けよう』(イザヤ書55章3節)『あなたの聖者が朽ち果てるようなことは、お許しにならないであろう』(詩篇16編10節)も、主イエス様が、「ユダヤ人が長く待ち望んだダビデの子孫」から生まれ、普通の人のように「墓の中で朽ち果てるのではなく、復活する」ことを予告している御言葉でした(13章33節~37節)

 このように、使徒パウロは、自分も目撃し、多くの弟子たちも目撃した「主イエス様の復活された御姿」こそ、聖書の予告された「キリスト」の証拠だと語ったのでした。ですから、使徒パウロは「ローマ人への手紙」でも、「聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである」(ローマ一章4節)と宣言しています。

 先月8月16日には、京都で、「五山の送り火」がありました。「祇園祭で夏が来て大文字で夏がゆく」京都では、「8月13日の夕方に故人の霊(精霊)がこの世に戻ってくるのを迎える『迎え火』を焚き、15日または16日にはあの世に送る『送り火』を焚く」と言われ、「先祖の霊」が「あの世」と「この世」をさ迷うとされます。

 しかしキリスト教においては、使徒パウロが「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(Ⅰコリント15章20節)と教えて、主イエス様が最初に復活され、私たちも主イエス様に続いて復活し「新しい栄光の体」が与えられると記しています(ピリピ3章20、21節)。

 今までの数々の罪と汚れが主イエス様の流された十字架の血潮で清められ、完全に赦されるだけでなく、「新しい栄光の体に甦る」ことが聖書の教える「救いの完成」です。ですから、毎週の礼拝の「使徒信条」で「…身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン」と信仰告白しています。私たちは、「あの世」と「この世」をさ迷う「霊」となるのではなく、主イエス様と同じく復活して「栄光の体」を与えられて、永遠の主なる神様と共におらせて頂けるのです。

                    2022年9月25日(日) 主日礼拝説教要約 竹内紹一郎