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2022年7月17日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所  使徒行伝9章32~43節 
    

    「聖霊による信仰の祈り」  


「またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物・・・(が、与えられている)」                   (Ⅰコリント12章9節)

「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。」              (ヤコブ章5章14、15節)

 

 初代キリスト教会の代表者ペテロが「方々をめぐり歩いた」(使徒9章32節)とあります。この「方々」は、ステパノへの殉教から始まったエルサレム教会への迫害で居場所を失って「散らされて行った人たち」(8章4節)が行く先々で伝道して、主イエス様を信じる人々が起こされた地域のことです(7章54節~9章31節)。ペテロは救われて間もない人々の所に行って、彼らの信仰を更に整えたのでしょう(9章32節、8章14~17節)。

 この時、ペテロが訪れた「ルダ」は、ピリポがサマリヤでの伝道やエチオピアの女王カンダケの高官に伝道した後(8章26-39節)、続いて伝道して巡った地域の一つです(8章40節)。この「ルダ」に「アイネヤ」という「中風」を患う人がいました(9章33節)。「中風」は、脳血管障害(脳卒中)の後遺症の「半身不随」「言語障害」などを指す言葉で、現代は早期の治療で本当に良くなる病気ですが、2千年前は命に関わる病気で、後遺症が残って本当に痛々しい病でした。

 アイネヤは後遺症に苦しんで8年間も床を上げられず、ただただ嘆いていたのでしょう。ある牧師は「8年もの間、同じ症状が続いていたら、治りたいという気力もなくなってしまうかもしれない。医者には見離され、自分でもどうせだめだ、一生直らないと思っていた」と推測しています。

 そんなアイネヤに、ペテロは「アイネヤよ、イエス・キリストがあなたをいやして下さるのだ。起きなさい。そして床を取りあげなさい」と宣言したのです(9章34節)。このペテロの力強い「信仰の宣言」は、どこから来るのかと思います。目の前に8年間も「半身不随、言語障害」で苦しみ「生きる気力を失った生ける屍」のようなアイネヤが横たわっていたのですから。

 その「癒しの信仰」はどこから来たのかと思いますが、それはペテロの内に溢れていた「聖霊の賜物による信仰」だったのでしょう。「コリント人への第一の手紙」では、「聖霊の賜物」について「ほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物」が与えられているとあります(Ⅰコリント12章9節)。ペテロは「聖霊」に満たされ「癒しの信仰」を頂いて、「アイネヤよ、イエス・キリストがあなたをいやして下さるのだ。起きなさい。」と宣言したのです(使徒9章34節前半)。

 一方、長く患って「もう、だめだ・・・」と思っていたアイネヤも、ペテロとの交わりの中で「聖霊の働き」に与ったのでしょう。私達も、信仰に満ちた人の側では自然と信仰が強められます。アイネヤもペテロの側にいて「癒やしていただけるかもしれない…」との信仰が与えられ、期待したのだと思います。すると、「すると、彼はただちに起きあがった。」(9章34節後半)とあります。

 主イエス様の十字架の血潮を信じて罪を完全に赦され、賜物としての「聖霊」に与ったなら(2章38節、39節)、その「聖霊」が「癒しの信仰」を与えてくれます。現代の私達も、主イエス様の十字架の御血潮(御宝血)によって、私達の罪の一切が「完全に赦されている」「雪のように真っ白にされている」だけでなく、同時に与えられる神様からの賜物の「聖霊」によって、「癒しの信仰」が与えられていることを信じて参りましょう。主なる神様は「信仰のあるところ」に働かれ、御業をなさるのです(マルコ福音書6章5、6節参照)

 8年間の長患いで、「生ける屍」であったアイネヤでしたが、「聖霊」による信仰に満ちたペテロの「信仰の宣言」によって完全に癒やされました。「彼はただちに起きあがった」のを目撃したルダの町の人々は「主に帰依した(主に立ち帰った:協会共同訳)」のでした(9章35節)。別の翻訳聖書では「ルダとサロンにいた人たちは、アイネヤが歩き回っているのを見ると、主イエスを信じるようになった」と翻訳しています(9章35節[現代訳聖書])。主なる神様を蔑(ないがし)ろにして、祈りもなく「神なき生活」を送っていた人々が、「アイネアを見て、主に立ち帰った」のでした。何と幸いでしょうか。

 このような鮮やかな「癒やしの御業」が行われたことは、周りの町々村々にも伝わったに違いありません。この「ルダの町」から約17km北西にある「ヨッパの港町」に「タビタ」という女性の弟子がいました。ギリシャ語の名前を「ドルカス(かもしか)」と呼ばれる恵まれたクリスチャンでした。ところが、病気で亡くなりました。彼女は「数々のよい働きや施し」をしていた人で、多くの人に慕われていたので、「人々がそのからだ(彼女の遺体)を洗って、屋上の間に安置した」のでした(9章36節、37節)。

 この時、ヨッパの港町に「アイネヤが癒された」と言う噂が聞こえて来たのでしょう。弟子達はルダに人をやりペテロを呼びました(9章38節)。この事は、ペテロにタビタの葬儀の司式をしてもらおうという意味ではなかったようです。アイネヤの「長患いの癒やし」が周りの弟子達の信仰を刺激したので、更に大きな恵みを求めたでしょう。

 ドルカスの「愛の業」は多くの人々の心を打ち人々から慕われていたので、関わりのある人々は彼女が「生き返ること」を願って、ペテロを彼女の遺体の安置している屋上の間に案内したのです(9章39節)。人々のこの思いを知ったペテロは、人々を外に出してひざまずいて祈り、「タビタよ、起きなさい」と言いました。すると彼女は目をあけて、ペテロが手を差し伸べたので立ち上がりました(9章40、41節)。これは、「マルコ福音書5章後半」にある主イエス様のなさった「会堂司ヤイロの娘の甦りの奇蹟」の記事(同書5章40~42節)とほとんど同じですが、一箇所だけ「(ペテロは) ひざまずいて祈った」(使徒9章40節前半)の部分が違います。主イエス様は祈る必要はなく、会堂司ヤイロの娘を生き返らせなさいましたが、ペテロは「ひざまずいて祈っ」たので、主の御業が現れ、多くの人が信仰に導かれました(9章42節)。

 私達は「祈る」ことで、奇蹟の御業を拝することが出来ます。深谷西島教会に「ドルカス」という洋品店を営んでいた姉妹がいます。彼女は心臓弁の取り替えと冠動脈のバイパスの開胸手術で心臓を「2時間15分止めて」の約8時間の手術を受けました。その時、教会関係者に携帯メールで、祈りの課題を一斉に送信して祈って頂きました。81歳での手術でしたが成功し、今も元気です。先月89歳で運転免許証の返納をしました。

 「教会のみんなで心を合わせて祈り」(ヤコブ書5章14,15節)、聖霊が与える「信仰をもって祈る祈り」(Ⅰコリント12章9節)で奇蹟の御業が現れ、主イエス様の栄光が証しされるのです。

                   2022年7月17日(日)  主日礼拝説教要旨 竹内紹一郎