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2021年1月17日

聖書箇所  新約聖書  マルコ福音書8章22節~26

  主の御業の後の「静まりの恵み」

        
「その日には、耳の聞こえない者が、書物に書かれている言葉をすら聞き取り盲人の目は 暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々は、イスラエルの聖なる方のゆえに 喜び躍る。」            (イザヤ書29章18節、19節[新共同訳])

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。
わたしは もろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」       (詩篇46篇10節)


「ベツサイダ」(マルコ福音書8章22節)の町とは、
主イエス様の最初の弟子のペテロ、アンデレ、ピリポの生れ故郷です。ペテロは、後に「カペナウムの町」で結婚して、その町住みました。主イエス様はその家で、「ペテロの姑(しゅうとめ)」の熱病を癒されました(1章30節、31節)。

主イエス様とペテロたち一行が、この「ベツサイダ」に舟で着くと、人々が、「ひとりの盲人を連れてき」たのでした。主の噂を聞いていた心の優しい隣り人たちが、「主イエス様なら、この盲人を何とかしてくださるかもしれない」と思い盲人を連れてきたのでした。ここに「伝道の基本」があります。この世の多くの人は、自分の思いだけでは主イエス様の許に来られません。ですから、「この盲人」のように、誰かが主を礼拝する教会にお連れできれば幸いです。

なお、旧約聖書には「盲人の癒し」の記事はありません。「そのこと(盲人の癒し)が出来るのは、主なる神様ご自身のみ」(出エジプト記4章11節、詩146篇8節)とあり、「イザヤ書」には、「その日(新約の時代)には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。」(イザヤ書29章18節、19節[新共同訳])と、救い主・メシヤが来られたら聾唖の人も 盲人も癒されると予告していました。

一方、新約聖書の4福音書には、「盲人の癒し」の記事はいくつもあります。「マルコ福音書」(8章・10章)「マタイ福音書」(9章・12章・15章・21章)、医者ルカの記した「ルカ福音書」には、主が「多くの盲人を見えるようにしておらえた」(ルカ福音書7章21節)とあり、「ヨハネ福音書9章」にも「生まれつきの盲人」の人の癒しの記事があります。そこでは、お弟子たちが主に「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか」と尋ねると、主は「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるため」(ヨハネ福音書9章2、3節)答えて「生まれつきの盲人」の人を癒されました。

 ある意味で「聾唖の人の癒し」「盲人の癒し」は不思議に思われ、「男だけでも5千人の給食」や「4千人の給食」の記事等は常識から考えればありえないのですが、それらは主が、「神から遣わされた神の独り子」「救い主キリスト」であることを証しする出来事として「マルコ福音書」に記されているのです。

この「ひとりの盲人の癒し」も、「聾唖の人の癒し」(マルコ福音書7章後半)とよく似ています。「一人の盲目の人」に対しても、主イエス様は「盲人の手をとって、村の外に連れ出」され(8章23節前半)、一人で御自分の前に立たせなさったのでした。現代の私たちは、兄弟姉妹との交わりのある「教会生活」の恵みを知っていますが、神様は「私達を一人、孤独にさせなさる」ことがあります。それは、あなた「一人」に御自身を現して「信仰を強め」、「励まし」、「成長させたい」と願っておられるからです。この「一人の盲人」も、主に手を取られて「恵みの座」である「村の外に連れ出し」て頂きました。

主は盲人に「盲目の癒しの御業」が分かるように、聾唖の人と同じように盲人の「両方の目に唾(つばき)をつけ」られたのでした(8章23節)。殺菌と抗菌の作用がある「唾」で、何も見えない「盲人の目をこれから良くしてあげる」ことが分かるようにされたのでしょう。そして「両手を彼に当てて、『何か見えるか』と尋ねられた」のでした。そしたら「人が・・・木のように見えます」(8章24節)と答えました。普段なら主の癒しは即座に、完全に行われますが(10章52節)、この盲人には、最初は「ぼんやり・・・見え」、癒しは徐々に行われました。当初、盲人は期待もなく、つれない思いしかなかったのに、二度目に主が御手を当てられると「目の不自由な、暗黒の人生」を一変する「驚くべき御業」に「棚ぼた式」与ったのです(8章25節)。ですから、すぐに理解し納得できなかったかもしれません。ある牧師は、「見えるようになった時のショックを少なくするため・・・・・いやしが徐々に行われたのである。・・・急激な変化にとまどわないようにというイエスの思いやりである。弟子たちが霊的真理に対して目が開かれるのもこれと同じである。初め彼らは(霊的に)盲目であるが、繰り返し語られるイエスのことばによってしだいに(霊の)目が開かれていく。だからイエスは、弟子たちが霊的に盲目であることを悲しんでも、決して失望はされなかった。」と言われます。信仰には成長の段階があり、主はその成長を「忍耐強く」待っておられます。

その後主は、癒された盲人を帰宅させなさいました(8章26節)。あまり期待もしていなかった盲人が、目を癒されたことを主イエス様の御業であると、しっかり理解し受け止める「静まりの時」が必要だったのでしょう。たった小一時間の内に、暗黒の人生が、光のあふれる人生に完全に変えられたのですから、その驚くべき出来事を、即座に、正しく理解できないのは当然です。使徒パウロも、復活の主イエス様に出会って、視力を失い、三日後に肉眼の目が開かれただけでなく、「主イエス様を仰ぐ信仰の目」も開かれましたが(使徒9章)、「ガラテヤ書」には、程なく「アラビヤ(の荒野)に出て行った」(ガラテヤ書1章17節)とあります。与えられた途轍もなく大きなお恵みを理解するために「アラビヤの荒野」で静まったのでした(ガラテヤ書1章17節)。この「盲人だった男性」も、人前に出て人々の興味本位の大騒ぎにもみくちゃにされる代わりに自宅に帰り、一人でメシヤ(救い主)しか出来ない「盲人の癒し」を受け止め、理解し、救い主を信じて感謝したことでしょう。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(詩篇46篇10節)とあります。主の御業を待ち望む時に「静まる」だけでなく、大いなる恵みの御業に与った後も、主なる神様とその御業そのものの意味をしっかり受け止めて理解し、心より感謝して、主を讃美する「静まりの時」をもって聖前に出ることをも教えられているのでしょう。

                       2021年1月17日 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎