本文へスキップ

message

2019年7月21日


散らされて行った人々は

 

 

『その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。…散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べはじめた』。(使徒行伝815節)

 

 

 このところは、エルサレムの教会に大迫害が起りましたが、神はこのことを益に変えられたのです。ユダヤ人たちはステパノを殺した余勢をかって、こんどは教会に対して迫害の手を延ばしてきたのです。そこで信徒たちはエルサレムから逃れて、ユダヤとサマリヤの地方に散らされて行ったのです。

 

 ところが彼らは、散らされて行った地方で福音を宣べ伝えたので、ユダヤ、サマリヤの地方に教会が誕生したのです。これはまさしく神の摂理(神の御計画)だったのです。なぜなら、この後、約30年後の西暦70年に、ローマ軍はエルサレムを攻撃し、陥落させてしまったので、もしユダヤ、サマリヤの地方に福音がもたらされていなければ、キリスト教は壊滅的な打撃を受けたに違いありません。

 

 ローマ書828節に「神は、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている」とありますが、迫害されたからといって何も恐れることはありません。

 

 使徒行伝198節以下に、こんな記事があります。「それから、パウロは会堂にはいっていって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた」。

 

 これは、パウロがエペソで伝道したときのことです。その当時は、ユダヤ教もキリスト教も明確な区別がなかったので、ユダヤ教の会堂で三年間伝道したのです。ところが、そこにパウロのことを悪しざまに言う者たちが現れ、会衆の前でパウロの伝道を妨害したので、パウロはこの会堂を出なければならなくなりました。これはパウロにとっては途方に暮れるような出来事でした。そして導かれたのがミラノの講堂でした。ここは哲学の学校で、ガラテヤ地方の優秀な青年が学びにきていたのです。

 

 そこでパウロはそこを借りて集会をしたところが、その哲学の学生たちが集会に出席するようになり、信仰をもったのです。これはすばらしいことでした。ユダヤ教の会堂なら、そこに出入りするのはユダヤ人だけでしたが、ミラノの講堂では、この地方の青年たちが自由に出入りしたので、彼らに福音がもたらされました。

 

 しかも、彼らは卒業したら、おのおの自分の郷里に帰りましたので、福音がガラテヤ地方の各地に教会が誕生したのです。しかも、パウロが足を踏み入れたことのない地方にまで教会が誕生したのです。まさしく神は逆転の神です。ですから、わたしたちも、「せん方尽きても望みを失わず」(途方に暮れても行き詰まらない。コリント後書48節)のです。どんなときにも、神を信じていくならば、神は素晴らしい結末に変えてくださるのです。

 

 旧約聖書のサムエル記上2324節に、こんな話があります。ダビデがサウル王から命を狙われ逃亡生活をしていたときのことです。ダビデがマオンの荒野にいたとき、ダビデの隠れているところへ、サウル王が直々に出陣してきて、ダビデを包囲しました。ダビデの命は風前の灯のような状態でした。ところが翌朝、いざと戦闘というときに、国元から伝令が来て、隣国のペリシテ人が国境を侵犯したことを知らせたのです。

 

 そこで、サウル王は国境の守りを固めるために兵を引き上げました。このときダビデは危機一髪でした。もしペリシテ人が国境を侵犯しないでいたら、ダビデの命はどうなっていたかわかりません。つまり、神はダビデを救うためにペリシテ人を動かして救われたのです。そこでダビデは、その地を「のがれの岩」と名付けて記念しました。

 

 詩篇3121節に、「主はほむべきかな、包囲された町のようにわたしが囲まれたとき、主は驚くばかりに、いつくしみをわたしに示された」とありますが、この詩篇はこのときのことを歌っていると言われています。

 

 結論として言われることは、わたしたちが思いがけないような試練に遭遇しても、神はそれを恵みに変えてくださるということです。なぜなら、わたしたちの信じる神は、「万事を益に変えてくださる」神だからです。(2019.7.21