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2016年10月30日

ギデオンの柔和

 

 

「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこでイエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

・・・柔和な人たちはさいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」。(マタイ福音書5章5節)

 

 これは「山上の垂訓」と言って、イエスがガリラヤの湖畔のほとりの小高い山で語られた垂訓(教訓)の一節です。この「柔和」とは「性質がやさしい、おとなしいさま」と広辞苑にあります。また詩篇37篇11節にも「柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる」とあります。そして一節には、「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである」とありますように、悪しき者がその悪のゆえに栄えて、権力をほしいままにしているようであっても、その最後は青菜のように萎れて滅んでしまうが、柔和な者が最後は栄える、と言う「神義論」です。

 

 

 また、コロサイ書3章12節には、「あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい」とあります。これはクリスチャンの徳目(道徳の細目)とあります。

 

 

 さて今日は「ギデオンの柔和」について学びます。彼は旧約聖書の士師時代に登場する士師です。この時代はイスラエルにはまだ王がなく、周辺の諸国から侵略されたり圧迫されたときに、士師がイスラエルの民を率いて戦ったのです。そしてギデオンもそのひとりでミデアン人から侵略されたとき、神に立てられ、イスラエルの人々を率いて戦った士師でした。

 

 

 ギデオンのもとに集った民は3万2千人でしたが、ミデアンの大軍の数からすれば決して十分な数ではありませんでした。ところが神は多すぎるから、数を減らせと言われたのです。そこで、「戦いたくない者は帰れ」と言ったところが、敵の数の多さに恐れた者たちが戦列から離れて行きました。その数が2万2千人で、残った者は1万人でした。ところが神は「まだ多い」と言われたのです。そこで彼らを川のほとりに連れて行って、川の水を飲ませて選別をしたのです。牛馬のように口を直接水につけて飲んだ人と、両手で水をすくって飲んだ人と二組に分けました。そして水を両手ですくって飲んだ人を選んだのです。その人の数が300人でした。これがギデオンの三百の精兵となったのです。この人たちは回りに気を配って油断のない人だからです。

 

 このギデオンの軍の戦略は、松明と壺でした。その三百の精兵は手に手に松明と壺を持って夜ミデヤン軍の野営地を取り囲みました。そして真夜中にいっせいにラッパを吹き、各自が手にしていた壺をパンパンと割りました。その音に驚いて兵隊たちがテントから外を見ると松明がぐるりと取り巻いていたので彼らは驚きました。こんなときは300本の松明が何倍にも見えるのです。そこで彼らは真っ暗がりで同士討ちをしたのです。

 

 この戦況を山の上から見ていたエフライム族の人たちが戦列に加わり、助力して戦ったのでギデオン軍は多勢のミデアン軍に勝利したのです。そのあとエフライム族の人たちがギデオンに文句を言いました。「ミデアン人と戦うために行かれたとき、われわれを呼ばなかったが、どうしてそういうことをされたのですか」と言って激しく責めたのです。そのときギデオンは「今わたしのした事は、あなたがたのした事(手柄)と比べものになりましょうか」と柔和な態度をあらわしたので、彼らの憤りは解けたのです。箴言15章1節に「柔らかい(柔和)答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす」とあります。

 

 

 最後に、ガラテヤ5章22節に「御霊の実は愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」とありますが、これは御霊に満たされるときに与えられるものです。ですから、わたしたちも御霊に満たされて、柔和な人にされ、地を受け継ぐ者とされたいものです。

                  (201610.30