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2016年10月23日

なぜ信仰が必要か

 

 

 

『神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである』。(詩篇46章1節)

  

 ウエストミンスター「小教理問答書」のなかに、「なぜ信仰が必要か」という問いに対して、次の二つの答えがありました。その一つは「人間はあまりにも弱いので、なにかに頼らなければ生きていけないから」。もう一つは「人間は変わらなければ、そのままでは神の恵みを受けることができないから」とありました。

 

 確かに人間は弱い存在です。普段は強いことを言っていても、なにかあればすぐに駄目になってしまいます。四国のある町の町長をしたことのあるお爺さんにクリスチャンの娘さんが、「お爺さん、そろそろ天国に行く用意をしないとなりませんね」と話すと「信心なんかいらない、それは弱い人間がすることだ」と取り合ってくれませんでした。それから暫く後にお爺さんが体調を崩して町の病院に入院しました。

 

 昼間は次々と見舞い客がありましたが、夜になると広い病室にひとりきりになりますので、このまま死んでしまうのではないかと不安で、一晩中まんじりともできませんでした。そこでハイヤーを頼んで一日中、町の中をドライブをしてもらい気を紛らわせていました。そのときはいいのですが、また夜になると眠れないのです。そんなことをニ、三日していましたが、それをみた娘さんが「お父さん、教会の先生を呼んできましょうか」と言うと、「うん、呼んでくれ」と言うので、牧師を病室に迎えました。牧師は聖書を開いて信仰の話をしていましたが、話の半ばでお爺さんが「わたしに洗礼を授けてください」と言ったので、その場で洗礼式をしました。

 

 それからお爺さんは不思議なように元気になり退院しました。そして家に帰ったお爺さんは家の門の敷居を跨ぐやいなや、「俺はヤソに回心したぞ」と叫んだのです。そして、それからというもの教会のために良き協力をされました。そして数年後に天に召されましたが、その最期は、手を高く挙げて「万歳、万歳、筒一杯の感謝を捧げます。わたしはこれから天国に凱旋します」と言って息を引き取りました。実に見事な最期でした。数年前には死が恐ろしくて病室で一晩、まんじりともできなかった人が、「万歳、万歳」と言って召されたのです。これはイエスを信じて救われたからです。皆さんも、イエス・キリストを信じて救われてください。そうすれば死さえ恐ろしくなくなります。死を恐れるのは、その人に罪があるからです。

 

 次に、なぜ人間は変わらなければならないのでしょうか。それは人類の始祖アダムとエバがエエンの園で神に背いて罪を犯したために、人間はみな罪をもって生まれてくるのです。これを「原罪」といいます。そしてそのままでは神の祝福を受けることはできません。ローマ書3章23節に「すべての人は罪を犯したために、神の栄光を受けることはできなくなっており…」とあります。そしてこれが人間の不幸の根源です。

 

 しかし、どんな人でも神のみ旨に適う人に生まれ変わることができるのです。キリスト教は「生まれ変わりの宗教」です。コリント後書5章17節に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」とあります。それはわたしたちを罪から救うために来られて、十字架にかかって死に、人類の罪の贖いとなってくださったのです。そしてこのイエス・キリストの十字架の贖いを信ずるものは、みな罪から救い出されて変えられるのです。

 

 エリコの町にザアカイという人がいました。彼は取税人であくどい取り立てをしていましたので、町中の人から嫌われていました。そのザアカイの家をイエスが尋ねられたのです。そしてザアカイはイエスの愛に触れて生まれ変わりました。彼は言いました。「自分の財産の半分を貧しい人に施します。また不正な取り立てをした人には四倍にして返します」と誓ったのです。そしてそれを実践しましたので、「ザアカイは変わった」と言って町中の人が喜びました。ザアカイが生まれ変わったからです。

 

 わたしたちの「活水の群」の創始者である柘植不知人先生がイエス・キリストの福音に接して救われたのは40歳のときでした。それまでの先生の生涯は放蕩の人生でしたが、この日、神戸の湊川の新開地を歩いていたときに、湊川伝道館という教会の看板を見てその教会に入りました。そしてその晩に救い主イエスを信じて救われたのです。

 

 それから53歳で天に召されましたが、14年間の短い人生でしたが伝道者として大きな働きをされたのです。そして先生が築かれた「活水の群」は、先生が召されて90年の年になりますが、今もその信仰が引き継がれているのです。(201610.16