本文へスキップ

message

2016年10月16日

神を畏れ敬う人の祝福

 

 

 

『事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である』。(伝道の書12章13節)

  

 まずはじめに、「事の帰する所」とありますが、これは「要するに」とか「結論として」という意味で、伝道の書の結論であります。そして次に「神を恐れ」とありますが、これは決して神を怖がることではなく、神を畏れ敬うことです。この聖書を翻訳した当時の常用漢字には「畏」という文字は使われていませんでしたので、「恐れる」という漢字が使われたので、「神を怖がる」というように誤解されてきました。つまり、「神を畏れ敬う」という意味です。

 

 次に、「その命令を守れ」とありますが、これは聖書の教えを守ることです。また、「これはすべての人の本分である」とありますが、この「本分」とは、広辞苑には「その守るべき本来の分限」とあります。つまり本来あるべき根本的姿とでも言っておきましょうか。要するに、神に対して畏敬の念(心)をもつことが、人間の根本的本分なのです。そして、このような者が神に愛され、祝福を受けるのです。そして詩篇128篇1節には「すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。・・・見よ。主をおそれる人は、このように祝福を得る」とあります。

 

 今から50年ほど前に、東京のある大学生から卒業論文の手伝いを頼まれました。そのテーマは「期待される人間像」でした。これは中等教育審議会が当時の文部省に答申した論文でした。そこでわたしは本屋でこの冊子を買い求めて読みましたが、その言っていることは「絶対者に対して畏敬の念をもつこと」であることがわかりました。この絶対者とは哲学の言葉で神のことです。もしこの答申どおりの教育がなされていたら、50年後の日本はもっと違ったものになっていたでしょう。

 

 ところが、知識偏重主義に偏った結果、心の教育が疎かになりました。これが今日の教育の荒廃の原因となりました。ある人が言った言葉に「神を畏れることを教えない教育は、知識の悪魔をつくるようなものだ」とありました。大切なのは頭の教育よりも、心の教育です。

 

 昔、この教会の信徒で教員をしておられた方が、外国の教育現場を視察するためにフランスに行かれ、こんな話をしておられました。つまり、この国では初等教育をするときに、まず最初の三ヶ月は宗教教育をするのだそうです。それが済んでから授業に入るそうです。伝道の書12章1節に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」とあります。

 

 わたしも小さい時から親に「不敬虔な人間になるな」と言われたものです。まだ子供だったのでこの意味がよく分かりませんでしたが、とにかく大変なことなのだなあと思いました。不敬虔とは神を畏れ敬わない心です。人間は神を畏れ敬う心を養い育てることが親の重大な責務です。

 

 旧約聖書の列王記下2章に、小さい町で起こった悲劇が書かれています。ベテルの町を預言者エリシャが通っていると、町の子供たちが出てきてエリシャに対して、「はげ頭よのぼれ、はげ頭よのぼれ」と嘲り、はやしたてたのです。どうしてこんな悲劇が起ったかと言えば、預言者を嘲ったからです。預言者は神に仕える人(聖職者)です。ですから、神から下された天罰だったのです。

 

 彼らが言った「はげ頭よのぼれ」の「はげ頭」とは、エリシャは剃髪していたので、頭のてっぺんには髪がありませんでしたので、このことを言ったのでしょう。また「のぼれ」とはエリシャの師匠のエリヤが「火の車、火の馬があらわれて、ふたりを隔てた、そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった」とあるところから、「お前も、はやく死んでしまえ」と言って嘲ったのです。

 

 このベテルの町は、イスラエルが北イスラエルと南ユダとに分裂した後、北王国の初代の王ヤラベアムは、北の住民が礼拝するために南のエルサレムに詣でることを嫌い、北王国にベテルとダンに金の子牛を造って国家聖所を造りました。そのために国内に偶像礼拝がはびこったのです。そして子供たちも不敬虔になり、神に仕える預言者を嘲ったのです。(201610.16