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2016年10月2日

臨在信仰について

 

 

 

『神に近くあることはわたしに良いことである』。(詩篇73編28節)

 

 ここにある「神に近くあること」とは、神の臨在に近づくことです。またヤコブ書4章8節には「神に近づきなさい。そうすれば、神があなたがたに近づいて下さるであろう」とあります。教会は神が臨在しておられるところですから、いろいろな問題や悩み、悲しみのなかにあるとき、教会に来て神の臨在に近づくならば、神はわたしたちのすべての問題を解決してくださるのです。そこで今日は三つの問題についてお話をします。

 

 まず第一に、「臨在のあるところに慰めがある」ということについて話します。神学校を出たばかりの若い牧師がこんな話をしていました。ある日、外から帰ってくると教会の玄関のところにうずくまっている一人のお婆さんがいました。近づいてみると教会員のお婆さんで、教会の屋根の上の十字架を見上げて手を合わせて祈っていたのです。そこで牧師は教会の門を開けてお婆さんを中に入れました。お婆さんは講壇の前でしばらく祈っていましたが、その後、「先生は留守が多いでな…」と言ったのです。

 

 そのお婆さんは家庭のなかでいろいろと問題があったとみえて、辛いこと、悲しいことがあると、いつも教会に来て祈っていたことを知りました。つまり、辛いこと、悲しいことがあると教会に来て臨在に近づいて神から慰めを得ていたのです。わたしたちも何か心に悩みがあるときは教会に来て臨在に近づいてください。神はわたしたちに力を与えて慰めてくださいます。

 

 次に、「臨在のあるところに祝福がある」ということについて話します。旧約聖書にこんな話があります。ダビデ王がエルサレムを都と定めました。そして、そこに神の箱(契約の箱)を迎えて、神の祝福を得ようと考えました。そこでキリヤテヤリムから神の箱を迎え入れようとしていました。ダビデ王は立派な牛車を造って運びましたが、途中で車の轍が石に乗り上げて引っ繰り返りそうになりましたので、側で護衛をしていた兵卒ウザが手で支えたので牛舎はことなきを得ました。ところが箱を手で支えたウザは打たれて死んでしまったのです。これはなにか理不尽のように思えますが、神の箱はレビびと祭司しか触れることのできない神聖なものだったのです。

 

 ダビデは、これは神がお怒りになったと考えて、エルサレムに運びこむことを躊躇したのです。そして近くに住む祭司オベデエドムの家に預けました。ところが、神の箱が「オベデエドムの家に三か月とどまった。主はオベデエドムとその全家を祝福された」(サムエル記下6章11節)とあります。それは神の箱があったところに神の臨在があったからです。神の臨在は教会は言うに及ばず、神を礼拝する皆さんの家庭にも臨在して祝福してくださるのです。ですから、教会だけでなく皆さんの家庭でも神を礼拝してください。そうすれば、皆さんの家庭が祝され平和なところになります。

 

 三番目に「臨在のあるところに癒しがある」ということについて話します。エジプト記15章26節に「わが臨在、汝を癒せり」(文語訳)とあります。昔、こんなことがありました。教会員の青年が同じ職場の青年を連れて来て、「先生、この人を助けてください」と言ってきました。話を聞きますと強度の不眠症で、もう何日も会社を休んでおり、これ以上休んだらクビになる、と思ったらますます寝られなく苦しんでいる」ということでした。そこで牧師はその青年のために頭に手を置いて祈りました。

 

 丁度その日は祈り会の日で大勢の人が会堂で祈っている最中でした。青年はそれをみて「あの人は何をしているのですか」と聞きましたので、「神様にお祈りをしているのです。あなたもよかったら一緒にお祈りしなさい」と言うと、彼は皆のなかに入って座りました。教会にはじめて来たばかりで、それが何なのかわからないままに、みんなのしているように頭を振っていましたが、一時間ほどして「先生、眠くなりました。寝てもいいですか」と言ってきましたので、牧師は「あなたは強度の不眠症のはずです。寝てはなりません」と言うと、青年はまた祈りの輪に入りました。

 

 それから、また一時間ほどして、「もう眠くてぶっ倒れそうです。ちょっと寝かせてください」と言ってきたので、「それならオルガンの横で寝なさい」というと、そこ会堂中響き渡るほど大きなイビキでゴーゴーと言っていましたが、一時間ほどしてケロリとした顔で起きてきました。それきり頑固な不眠症が癒され、翌日から会社に出勤したのです。まさしく、「わが臨在、汝を癒せり」です。(201610.2