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2016年9月25日

妬み心を聖別せよ

 

 

 

『人は栄華のうちに長くとどまることはできない、滅びうせる獣にひとしい。・・・

人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。

彼らが死ぬときは何ひとつ携えて行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことはないからである。(詩篇49編16節)

 

 わたしたちは神を信じて、真面目に生きているのに、そうでない人が栄えているのを見て、「神はほんとうに義なるお方なのだろうか」と疑問を持つことはありませんか。そんな疑問に対して聖書は、「彼が死ぬときは何ひとつ携えて行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことはないからである」と答えているのです。また、詩篇の37篇1節に「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである」とあります。このような人は、今は栄えていても「やがて草のように衰え、青菜のようにしおれる」のですから、そんな人を妬んだり、羨んだりしてはなりません。

 

 今週は「日本伝道会議」が神戸で開催されます。日本の福音派の人たち約二千人ほどの人たちによる会議です。この会議をとおして、神はどんなことをしてくださるか、期待して望みたいと思っています。

 

 いまから28年ほど前に、フェリピンのマニラで「世界伝道会議」が開かれました。世界95ケ国から5千人の牧師、宣教師が集い12日間の会議でしたが、この会議をとおして神はすばらしいことをなさったのです。会議は6月でしたが、それから3、4ヶ月後にルーマニアの共産党支配の国家が崩壊しました。そしてチャウスクスクがその夫人と一緒に銃殺されました。それに抗して東欧の共産主義国家がドミノ倒しのように崩壊したのです。そしてベルリンの壁が倒壊し東西ドイツが統一されたのです。そして最後はソ連邦も共産党支配が倒壊しロシアとなりました。この世界伝道会議の年にこんなことが起こるなんて驚異的出来事でした。これは皆さんも自明なことです。

 

 さて、話を元にもどしますが、その伝道会議中の自由時間にわたしはマラカニヤン宮殿を見学しました。これはマルコス大統領とイメルダ夫人の居館だったところで、豪華絢爛な生活を目の当たりにしました。しかし群衆のデモに宮殿は取り囲まれて、秘密の非常口から脱出して亡命しましたが、そのときは着の身着のままで、イメルダ夫人の二千足の靴も、一千着のドレスもそのままに残されていました。これが独裁者の最期で、「彼は死ぬときは、何ひとつ携えて行くことはできない」との、み言葉のとおりでした。

 

 独裁者の最期はみじめなものです。ですから「人が栄えているのを見ても、決して羨んではならない」のです。2012年12月18日にチュニジアで反政府デモが起こりました。これは「アラブの春」と呼ばれ、次々と隣国にも革命が起こりました。そしてアフリカの北部にあるリビアでも反政府革命が起こりました。長いあいだ、最高指導者として君臨したカダフィ大佐は、農業用水の排水管の中に隠れていたところを見つかり捕らえられました。そして護送中に死んだ(殺されたとも言われています)のです。独裁者の惨めな姿です。また、イラクのフセインの最期も、郊外の農家の物置小屋の地下に潜んでいたところが見つかり身柄を確保されましたが、そのニュースの映像は惨めなものでした。

 

 箴言14章30節に「妬みは骨の腐りなり」(文語訳)とありますが、妬み心は心の癌です。こんなものを持っていたら人間は自滅してしまいます。御霊によって聖別されなければなりません。イエスを十字架にかけて殺したのもユダヤ人の妬みのためでした。マタイ福音書27章18節に「彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである」とあります。

 

 これまで祭司や律法学者たちがユダヤ人から尊敬を受けていましたが、イエスが出現したことにより、ユダヤ人の心はイエスに傾いていきました。そこで危機感を抱いた彼らはイエスを亡き者にしようと、あることないことを訴えてイエスを十字架にかけて殺したのです。これはユダヤ人の妬みの結果です。

 

 そしてユダヤ人は「この血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」(マタイ福音書27章25節)と言ったために、その後2千年間ユダヤ人を迫害する口実となって今日に至ったのです。どうぞ、少しでも妬み心があるならば、それは「心の癌」で、そんなものを持っていたら滅びですから、御霊によって聖別される必要があります。妬み心を持って神の国に入ることができないからです。(20169.25